Twitterでバズった元店長【ハリー中野】の宝石ブログ
猫娘、パパにおねだりしてみたら?
前回、前々回のブログでも取り上げました谷崎文学でございますが、今回も谷崎つながりといふ事で、先生が晩年にお書きになった「瘋癲老人日記」を取り上げたいと存じます。
こちらタイトルには日記とございますが、実はこれは日記の体裁をとった小説。ただしこの小説を執筆された当時は、作者の谷崎先生もすでに主人公と同年代の老人だったので、多分にご自分の老境の姿、日常を作品に投影しておられるのではないかと推察されます。
主人公は表題の通りの老人で、小説自体がこの老人が記す日記の体裁なのですが、その老人に瘋癲(ふうてん)と付くからにはタダの年寄ではない。
近頃は瘋癲などという言葉は最早死語となっており、その断末魔の爪痕が、映画でおなじみの「男はつらいよフーテンの寅」。とはいえ、現代の若者がこのタイトルを見れば、このフーテンというのはさしずめ何かの職業か何か、もし映画をご覧になれば、寅さんの本業、テキヤ業の事をフーテンと呼ぶんだ、なんて早合点してしまう人がほとんどではないかと思うのですが、実はさにあらず。ウィキペディアをググると、瘋癲とは精神疾患あるいは、無職と出てまいります。さてこの小説に出てくる老人、確かに隠居の身ゆえ無職には違いないが、所謂有産階級、ブルジョアジー、悠々自適の暮らしぶり。ですからこの作品の場合の瘋癲に当てはまるのは明らかに精神疾患、すなわちクレイジーの方。
さて、ではいかようにクレイジーな爺さんかと申しますと、この老人、御年七十七歳、卯木督助という名前なのですが、あろうことか広いお屋敷内に同居する自分の息子の妻、颯子に不埒にも秘かな下心とも呼べる想いを寄せているのでございます。
この老人、老人というだけあってかなりの老いぼれぶり。口蓋内の総入れ歯に始まり、慢性的な高血圧。加えて男性機能の喪失。何年か前に一度脳溢血で倒れており、その後遺症からか、左手には絶えず神経痛の鋭い痛みが襲い、薬が手放せないのはもとより、お抱え看護婦が常時付き添っているような有様。
独り暇なときには自分の葬式の模様を夢想したり、その後に葬られる墓の事をいろいろ心配したりと、最早文字通り人生終末期の暮らしぶり。
しかるに恐るべし、未だ枯れることを知らぬ、たぎり立つスケベ心は健在。アッパレ!としか言いようがない。
この卯木家の嫁、颯子という女性、良家の嫁に似つかわしくない、日劇ダンシングチーム崩れの水商売上がりという設定で、なかなかの白皙美貌の悪女。今風に言うならば色白美肌の美魔女。舞台設定が昭和三十五年頃の東京でありますが、自家用車未だ珍しい時代に、既に自分専用のヒルマンなる英国車を自ら運転し、一人息子はあるものの、日々スポーツ観戦や観劇など自由奔放な暮らしぶりを送っております。
そしてその夫、すなわち卯木老人の息子は、一流企業に勤めるエリートサラリーマンなのでありますが、どうやら外に不倫相手の女がいる模様。それに当てつけてか、妻の颯子もしばしば夫の従妹に当たる男性を家に引っ張り込んでは不義密通、不道徳極まりない仮面夫婦なのでございます。
そして何より凄いのがこの嫁、颯子の振る舞い。この卯木老人が自分に対して何やら怪しい下心を抱いていると感づくや、なんとこの老人の気持ちを一層焚きつけるような行動に出るのです。
この卯木家、大金持ちのお家にふさわしく、昭和の中期にもかかわらず、バスルームにはシャワーカーテンが設備されたバスタブが設えられてあるのです。颯子はこのバスルームを自身が使う時には、一切施錠してない事を敢て老人にこっそりと耳打ちするのです。
さあ、これを聞いたスケベ老人、正に猫にマタタビ、ゴキブリにホイホイ、早速にも浴室に闖入を企てるのですが、それに感づいた颯子少しも臆せず、シャワーカーテンに裸身を隠しながらも、老人をさらに挑発いたします。その結果ついに理性のタガが外れた老人、思わず颯子ににじり寄り、その水滴輝く白い首すじに老いぼれ干からびた唇を這わそうとした瞬間、颯子にその横面を激しく張り飛ばされるのであります。その時はそれで事なきを得、老人はすごすごと退散いたします。
しかしこれで懲りるようなヤワな助平爺さんじゃあございません。後日またこの老人、性懲りもなく嫁の入浴中のバスルームにためらうことなく侵入いたします。
そして、この時は老人に根負けした体を装いながら、悪女颯子、首は弱いから、脚への口付けなら構わないと譲歩してみせるのです。これに狂喜した老人はその美しい脚のふくらはぎから、かかと、足の甲と順番に唇を這わせ、遂には親指から順番に、足指全部を、まるで飢餓に苛まれた人が久々の食い物にありついたがごとくに丸かじり、口いっぱいに頬張り、忘我の極みに達します。
さてその夜、老人の血圧を測ったお抱え看護婦はその値が二百三十を超えるのに驚愕し、何があったか老人に問いただします。もちろん老人は全く身に覚えがないと、すっとぼけるのでありますが、たちまち当時の状況が脳裏に蘇り、あの極度の興奮状態が自らの死を招いたかもしれなかったと悟ります。しかし爺さんに悔悟の気持ちが湧くどころか、死なば本望だと開き直る始末。
それからもこの老人の命がけの密やかな楽しみは、甲斐甲斐しい嫁の介護のもとに続けられていくのですが、ある時颯子から新たな提案がなされます。その提案というのは、なんと最初老人が激情にまかせ試みようとした首筋への接吻、作中ではネッキングと呼んでおりますが、これを許してあげるかわりに自分の望みも叶えて欲しいというもの。老人は早速その望みを質すも、颯子これに答えず、「まあ、とにかくネッキングをなさい」とあたかも女王様のごとく命じます。老人の日記本文によると、「結局、余の方が誘惑に負けた。余は二十分以上も所謂ネッキングを欲しいままにした」と、もう大満足の様子。
ただし、その後の颯子の要求が凄まじい。その要求とはキャッツアイの指輪を買って欲しいというもの。しかもその指輪はただのありふれた品物では無い。なんとそれは帝国ホテルのショッピングアーケードにあるお店で売っている、中石のキャッツアイが十五キャラットを超える、三百万円もする逸品。この小説が書かれた昭和三十年代の大卒初任給が平均一万円らしいので、その値打ちたるや今の貨幣価値に換算すると優に五、六千万は超える額。
さすがの瘋癲老人も一瞬たじろぐのですが、引換えにネッキングの遊戯を今後も継続的に許してくれると聞くや、渋々の体を装い、しかし内心の嬉しさは表情に現れ、それを颯子に見透かされ結局購入の運びと相成るわけであります。
実はこの卯木老人、大変な吝嗇で、実の娘から家屋購入に当たって当座の利息分として借金二万円を頼まれるもこれを断るという寓話が挿入されております。娘には貸す金の二万円すら惜しむ親が、息子の嫁とのたわいないネッキングに大枚三百万をはたいて悔やまない。これぞ瘋癲の瘋癲たる所以でありましょう。
さあ、そのキャッツアイの指輪からすれば、ご覧いただいております当店自慢、猫の目の瞳もきりっと涼しいクリソベリルキャッツアイのリング、随分と安い買い物じゃございませんかご主人。
嫁姑の相性の悪さはもう昔から言い尽くされているほど。母親にとって息子の嫁というものは宿敵、天敵、親の仇のようなもの。ところがアナタ、父親にとっての息子のお嫁さんというものは実に可愛いもの、特にむさくるしい息子だけの家庭の父親にしては初めての娘であって、尚且つアカの他人、尚且つ年若い!さらには遺伝子を引き継いだ息子の好みは我のまた好み。たまにはこんな指輪をカワイイお嫁さんにプレゼントしてみたらきっと良いことあるかもしれませんぜ旦那。ネッキングすることは叶わずとも、チョーキングくらいはしてくれんじゃね?
嗚呼!早くわが家にも颯子みたいなお嫁さん来ねーかなー!あっ、アカンは、ウチは娘しかおらんかったんや・・
惚れてしまえばアバタもエクボ
前回のブログで取り上げましたのは、谷崎潤一郎先生の随筆でございますが、先生がお書きになった数多くの小説の中に、「蓼食ふ虫」という作品がございます。
蓼の実というものは非常に苦く、たいていの動物は敬遠するのだそうですが、その苦い実を好んで食べる虫もいるというところから、”蓼食う虫も好き好き”と云うような故事が生まれたそうでございます。
まことに人の好みというものは千差万別。広い世の中、中には驚くような変わった嗜好、好みというものをお持ちの方がおられます。
例えば、男性の異性の好みの傾向などには、デブ専、ブス専、フケ専、またその逆のロリコンと、もっぱら偏ったタイプの異性でないと何ら心の炎がむらむらと燃え立たたないといった困った奴等がおります。
まあ、デブ、ブス、フケに関してはそれなりにお好きになさればよろしいのでございますが、ロリコンだけはマズイ!一歩間違えば犯罪者にもなりかねませんからね。
あと、こういった(専)からさらに発展した(フェチ)というものがございます。これはフェティシズムの略で、本来この言葉は呪物崇拝と訳されるそうですが、一般的には異性の身体の一部などに性的魅力を強く感じる嗜好を指すのでございます。たとえば脚フェチ、指フェチ、腋フェチ、髪の毛フェチ、耳フェチ、臍フェチなどなど、文字通り身体の特定部位に性的興味が集中するものから、匂いフェチ、下着フェチ、ハイヒールフェチなどといった間接的でより高度な妄想力を要するフェチまで広範囲、複雑多岐にわたっているようでございます。
こうした所謂変態性欲趣味などと呼ばれ、世間から白い目で見られるような傾向は、もっぱら男性に多く見受けられるようで、女性のブス専、フケ専、デブ専、ロリコン、あるいは各種のフェチの趣味があるという話はあまり聞いた事がございません。干してある洗濯物の男性の猿股を狙う女性の下着泥棒など聞いたためしがございませんからね。ジジイのわたくしとしては、せめて女性のフケ専だけでも急増してくれればもっと楽しい社会になるだろうにと切に願うわけでありますが。
さて、手前のようなウブな初心者、普通の美女専、まったくの凡人には、そういった鋭い感性と妄想力を要する奥深く楽し気な趣味の世界は全く想像のおよぶところではございませんが、唯一理解できそうなジャンルがブス専の世界。
と申しますのも、物事の美醜を判断するのはあくまで個人の感性によるところが大きいわけでございまして、わたくしの知人なども、長らく連れ添うカミさんを絶世の美女と崇め続け、愛妻家の誉れも高いのですが、周囲からは秘かに筋金入りのブス専と囁かれているのでございます。
あるいはまた、愛犬家の趣味というものも複雑多岐に分かれており、誰がみても可愛らしいトイプードルやチワワ、マルチーズなどの犬種に人気の集まるのは頷けるのですが、中にはブルテリア、パグ、ブルドッグなどといったブス犬をブサカワイイなどといった造語までも生み出し、愛でるペット界のブス専まで出る始末。
ことほど左様にブスというきっちりした基準、定義が確立していない世間におきましては、或る人の目には美と映るものが、別人には醜となり、醜なるものが美ともなりうるのでございます。
こういった傾向が大きく現れるのが、宝石の場合ございますとオパールの世界ではないでしょうか。
オパールとはご承知の通り、遊色効果と呼ばれる、石の傾きを変えたりして見る方向を変えることによって、あたかも万華鏡を覗いたかのように様々な色の変化がその表面に浮かぶ不思議な視覚効果を楽しめる石なのでございますが、この色の変化も千差万別、人の人相と同様一つとして同じものがございません。したがいましてその好みも、斑の出方や色目によって大きく分かれるところでございます。また、この変化の妙を追い求めオパールのみをせっせ収集するコレクターもおるやに伺います。
ご覧いただいております指輪に留まっておりますブラックオパールは、文字通りブラックの地色にブルーとグリーンの遊色が鮮やかに浮かび、なにやら宇宙から眺めた地球のような外観を呈しております。
ブラックオパールとして評価が高いのはハーレクインとかピンファイアなどと呼ばれる斑の出方に、赤やオレンジ、イエローなどの華やかな色がカラフルに混入しているというものが良品とされております。こちらご覧いただいておりますオパールは、斑の出方こそ大ぶりの斑点がくっきり観察され、ハーレクインに近いような柄なのですが、いかんせん華やかな色目を欠き、カラフルさが見られません。ただしこれとてお洋服やお着物の柄行と同様、自ずと好みがわかれるところ。
エルメスやレオナールなどの鮮やかでカラフルなプリント地がお好みの方がおられるの一方、川久保玲氏や山本耀司氏のモノトーンにご心酔のご婦人ももちろん数多くおられるはず。
この指輪など、この神秘的な深いブルーグリーンが、さぞやコムデギャルソンやY’sのお洋服にバッチシ絡んでいい仕事をしそうな、いかにも日本人好みの渋い色合いではございませんでしょうか?
翡翠礼賛
以前にもこのブログでちょっと触れたように思いますが、わたくし、休みの日にはよく近所のブックオフに立ち寄り、古本を漁る習性がございます。
と、申しましても、決して稀覯本などを血眼で探すといった古本マニアなどではなく、呑む打つ買うといった男の道楽の嗜みもない、無粋退屈な老人の余暇の暇つぶしを求めての事。まあそういった店へ行くこと自体が一種の暇つぶしともなっているわけでございますが。
大体わたくしがよく訪れるお店の中の区画は、小説の文庫本があいうえお順の作家別に並んだ棚。ただ、実際購入の気概をもって眺めるのは、その中でも一冊百円(税込み¥110)のお買い得のコーナー。心細い懐事情もさることながら、この歳になりますと本一冊を最後まで読み通す気力がなくなっておりまして、買っても大概は読みかけか、あるいはまったく読まずに打っ棄ったままの事も多いので、そのようにしてなるべくロスの出ないよう、ひとえにお小遣いの始末に努めているのでございます。
さて、この百円均一で売っている文庫がどんなものかと申しますと、通常の古本よりさらにコンディションの悪いものが多いようで、例えば、表紙が少し汚れているとか、中身のページにシミが付着しているとか、焼けて茶色っぽく変色しているなどというもの。稀に状態の良いのがあれば、聞いたこともない作者の聞いたこともない作品。
得体のしれないシミが一部にベッタリなんていうのは、やはり気味が悪くていけませんが、逆にページ全体が焼けて古びた感じになっているものなんかは、長らくどこかの家の本棚ででも眠っていたであろう、その時間の堆積が感じられ、それらが放つカビ臭さとも相まって一種骨董の境地にも相通じる、なかなか滋味深いものでございます。
先日も何気なくのぞいた本棚で偶然見つけたのが、世間から畏敬の念を込めて大谷崎とも呼ばれる明治から昭和にかけて活躍された文豪、谷崎潤一郎先生の著作、中公文庫出版の「陰翳礼讃」の文庫版。
出版日が昭和五十七年九月二十五日十版と奥付にございますから、なんと四十年も前に発行された本。ただしオリジナルの初版は昭和十四年だそうですから、歴史の重みを感じさせてくれる一冊。
もちろん中身のページは見事に薄茶色で均等に綺麗に焼けており、文字通り古色蒼然と言った体。
印刷されている文字も、現在の単行本の文字よりも一回りほど小さく、フォントも明朝体には違いないが、なにやら古めかしい、より筆文字に近い印象でございます。
歴史を感じる古びた劇場で鑑賞する伝統芸や古典の芝居のごとく、文豪と呼ばれるような昔の文人の著作に接するには、やはりこうでなければいけません。
さて、肝心の本の中身なのですが、こちらもこの本の枯れた外観にピッタリの内容。
こちら、谷崎先生お得意の小説ではなく、随筆といった体裁。タイトルの「陰翳礼讃」が表すとおり、その論評は西欧と日本、あるいは東洋の美意識というものの差異を、西欧のそれが光の中にあるカラフルな色彩に求めるのに対して、我々日本の文化においては陰翳、すなわち光あるところに必ず生ずる影との対比における色彩、あるいは色彩そのものに含まれる陰、あるいは影自体の奥行に価値を見出すのところにあると説いておられます。
その説を裏付けるため、谷崎先生は日本家屋の造作、特に厠という家屋における陰の部分を、静かで清潔な場所に保ち、瞑想の場所と位置付けた日本人の知恵という点や、行灯や障子における紙と光との関係、墨汁と和紙が醸し出す風合い、漆器や時蒔絵が日本家屋の持つ陰翳の中で放つ美しさなど様々な角度から、我々の日本文化が長い時代を経て培ってきた陰翳の美意識を細かく解説されております。
さて、そのなかで古来より我々日本人を含む東洋人の心をひきつけて止まぬ宝石、翡翠の魅力を文豪の圧倒的な筆力によって形容されている箇所がございますので、わたくしのヘボな説明に代えて、そのすべてをここに引用させていただく次第でございます。
“支那人はまた玉(ギョク=翡翠)と云う石を愛するが、あの、妙に薄濁りのした、幾百年もの古い空気が一つに凝結したような、奥の奥の方までどろんとした鈍い光を含む石のかたまりに魅力を感ずるのは、われわれ東洋人だけではないであろうか。ルビーやエメラルドのような色彩があるのでもなければ、金剛石のような輝きがあるのでもないああ云う石の何処に愛着を覚えるのか、私たちにもよくわからないが、しかしあのどんよりした肌を見ると、いかにも支那の石らしい気がし、長い過去を持つ支那文明の滓があの厚みのある濁りの中に堆積しているように思われ、支那人がああ云う光沢や物質を嗜好するのに不思議はないと云う事だけは、頷ける。”
さて元東京都知事、石原慎太郎閣下没後の今の時代、支那人なんて言う人もおりますまいが、そんな事言うと、叱られるどころか、台湾を飛び越え人民解放軍に攻め込まれると困りますから、あくまで古い文献の引用という事で、とりあえず遺憾の意を表し陳謝いたす次第でございます。ゴメンチャイナ。
しかしさすが文豪、どうこの美文!こんなんスラっと書けたら毎度のこのブログも苦労せんのに。
さて、こちらにご提示いたしておりますは当社自慢の翡翠の指輪。どうです文豪谷崎が奥の奥の方までどろんとしたと描写いたしますよう、この何とも言えぬ半透明なぬめりを帯びたような深みのあるグリーン。鉱物というより抹茶を溶いた氷菓のごときこの瑞々しさ。
谷崎先生はこの著書の中で、西欧の婦人の肌の色と本邦は大和撫子のそれとを比較して述べておられる箇所がございます。それは、日本人にも西欧人に劣らぬ肌の白さを持つ者がいるが、はたして並べて対比しようものなら明らかな差異がある。その差異というのは白色人種の肌の白さは、あくまでも混じり気の無い純粋な白であるのに対し、わが同胞の色白自慢の女性の肌は如何に白いと言えど、その奥底には必ずや陰翳が潜んでいるというもの。この陰翳を内包する肌の色が引き立つように、伝統的な和装の生地には様々な彩色の工夫が施されているとも説いておられます。そしてその和の装いの仕上げには、やはり陰翳をうちに秘めたる宝石、翡翠で完結されるべきなのでございましょう。
穏やかさこそ真珠の命
コロナの次はサル痘でっか?堪忍してほしなー、次から次と。どないなっとるねん?
しかし、サル痘ってけったいな名前やねー。
けったいな名前言うたら、三浦マイルドというお笑い芸人がいてはりますなー。
実際にこの人の芸自体未だ拝見した事が無いので、その芸についてとやかく言うつもりはないのですが、この三浦マイルドというへんてこな芸名自体に強く惹かれるのでございます。
大体こういった日本語、外国語混合の名前の場合、不肖わたくしハリー中野の場合を例にとるまでもなく、カタカナファースト、漢字セカンドの順番が一般的。ところが三浦氏の場合は氏名という文字の順番通り、名字が先に来てカタカナ名前が後に来るという変則系。ほんで名前がマイルドってなんなん?普通マイケルとかケインとかテリーとかやね、もっと名前っぽいのをもってくるんちゃうん?それが突然形容詞のマイルドってどういう事?
そもそも、マイルドという言葉自体、一般的には褒め言葉の中に良く見かける形容詞。マイルドな風味とか、マイルドな仕上がり、マイルドな性格。きっと三浦さんもマイルドで温厚な人柄なのでしょうが、さて、芸人としてマイルドというのはいかがなものか?
大体マイルドって中庸とか凡庸とかボチボチ、そこそこ言う意味もあるんと違うん?アカンやろ、お笑いでそんなん。もっと先鋭に尖って突き抜けるようなんでなかったらアカンの違うん?そんなことでは生存競争の激しい芸能の世界では勝ち残れんよー、てっぺん取れんよー、と突っ込みどころ満載のマイルドさんの名前。
ただし、例外というものはどの世界にもございます。
例えばダウンタウン松本人志さんが司会を務める「松本人志のすべらない話」なんかのお笑い芸人のウデ比べ、真剣勝負みたいなのには絶対不向きながらも、良い持ち味を滲み出しているのが村上ショージ氏。この人若い頃から明石家さんま師匠の取り巻きのような存在として、まさに師匠にコバンザメのごとく寄り添い芸能の世界を生き抜いてこられたようなのですが、事ここにいたりそのすべらない芸ならぬ、スベりまくる、グズグズの芸風が脚光を浴び、齢還暦を越えてからその人気が急上昇してきたとか。
さてここからは、まことに個人的な、ガーシー風暴露話になるのでございますが、わたくし若かりし頃お付き合い願ってた彼女というのが、実はこの村上ショージ氏の元カノだったのでございます。
当時村上氏は、これもお笑いの島田紳助さんが率いていたロックバンド?紳助バンドというバンドのギタリストとして音の出ないギターを弾いておられ、そのオッカケの一人がナントその彼女。要するに村上氏、ファンの女の子に手を出したわけやね。いやいや、それを責めるのは酷というもの。なぜならその娘の容姿は飛び切り上等、むちゃベッピンさん。なんせ行き交う人々が振り向くほどやったんですから。
さて、そのベッピンなお嬢さんがなぜ村上氏を離れ、幸運にも私の元にころがり込んで来たかを説明するのは非常に話が長くなる故、紙面の都合上割愛させていただきますが、結局私のもとからも一年程で彼女は他の男のもとに去っていったので、移り気な娘さんやったんでしょうな。
まあ、そういう経緯もあって、村上氏に対してはまんざらアカの他人にも思えん節もあり、昨今のご活躍、義弟としても喜ばしい限りでございます。こちらは相も変わらずうだつの上がらぬ始末でございますが。
さて、一般的にマイルド、凡庸が良くないのは芸人の世界だけに限りません。皆様のお好きな宝石の世界でもマイルドというのはけっして良くはございません。マイルドな輝きとかマイルドな色目なんて言われてのイマイチぴんと来ないはず。やはり宝石は鋭い輝き、目も覚めるような鮮やか、ビビッドな色目でなきゃいかんのです。
ただしその様な中でも、村上ショージ氏的例外がございます。たとえばムーンストーン。名前からして太陽やなくてムーン、つまりお月さん。しかも、くっきりはっきり煌々と照る満月やなくて、ボーっと雲に隠れた朧月夜のお月さんという感じ。この薄ボンヤリした感じが神秘的という事で結構人気がございます。ほんなら、ショージ兄さんの魅力も神秘的という事か?
あるいはまた真珠の光沢というのも田舎の便所の裸電球、白熱灯のようなボヤっとしたところが良いのでございます。
例えば同じ白い球でも、福引の回してガラガラポン、外れの時に出る白いベタな玉だとまったく風情というものがございません。それにひきかえ真珠のホワイトの魅力というものは、それを形成する幾重にも重なった真珠層によって生み出される、オリエントと呼ばれる虹色を含んだ干渉色による何とも言えない柔らかな光沢が魅力の全て。
いかがでございましょう?ご覧いただいておりますネックレス。貴金属地金のデザインネックレスの狭間狭間にパールが大小三つまとまってセットされております。このパールこそがともするとソリッドで無味乾燥、冷たい印象になりがちなメタルのみのネックレスに、ふんわりとした優しさ、穏やかな温もりを与え、あなた様のフェミニンな魅力を嫌がおうにも引き出さずにはおれないといった効果を発揮するのでございます。
パールと申しますと、ともするとフォーマルウェアのお供として考えがちですが、こういったくだけた装いのお供としても良い仕事をするのでございますよ。
「そんなん知らんかったでしょ?」
「何を言う早見優」
すべったところでお後がよろしいようで。
夏は稲川スイカにアレキ
暗い夜道、空車のタクシーがあてどもなく流していると、突然街灯もまばらな寂しい場所で、うら若い女性が手を挙げて乗車の合図。車はスピードを落とし女性の横でゆっくりと停車いたします。
無言で乗り込んできた女性、沈んだ表情で何やらワケありな様子。
「えーっと、どちらまで?」運転手はきわめて事務的に声を掛けます。
女性は少し先に行った所にあるお寺の名前を消え入りそうな声で告げました。
ひょっとするとお通夜の参列かな、塞ぎこんだ様子でこんな時間、きっとそうに違いないと運転手は一人合点し、それならあまり話しかけない方がいいだろうと気をまわし、無言で車を走らせて参ります。
しばらく行くと、ちょうど信号で停まったのでチラッとバックミラー越しに後ろを確かめます。するとどうした事か座席にいるはずのその女性の姿が見えません。具合でも悪くなって座席に横たわったのかと思い、運転手今度は身体をよじって後ろを覗き込むと、なんと乗車してるはずの女性の姿が全くありません。
ギョッとした運転手、運転席から転げ落ちるように車外に飛び出ると、後部ドアを開け中をのぞきこみますが、客席はまったくのもぬけの殻。乗っているはずの女性の姿が忽然と消えております。
ただ、その女性の座っていた付近を中心に座席がびっしょりとバケツの水をぶちまけたように濡れ、雫が床にまで滴り落ちて辺り一面水びたし。その時運転手、身中より言いようのない恐怖がこみ上げ、全身にけいれんの様な震えが襲うと同時にまさに絶叫、喉も割れんばかりの悲鳴を発したのでございます。
「ぎゃーーーーっ!!!」
さて、こういったお話し、中川家の漫才のネタにも使われるほどポピュラーな怪談話なのですが、こうした怪談のお約束と言うかオチと言うか、最後に必ず主人公が「ぎゃーっ!」っと絶叫し、恐怖におののくサマでエンディングを向かえるわけなのですが、これにはいささか疑念の余地が残るところがございます。
実際、わたくしも実体験としてお化けを見た経験がございます。
あれはもう今からかれこれ二十年程も昔の事ですが、例によって仕事の付き合いで呑んだ帰り道。最寄りの駅から家路をたどり、酔っ払いの千鳥足で夜道を歩いておりました。すると、ちょうど民家の生垣に接するように建てられた電柱、そこから延びて夜道を照らす街灯のその潤むような光源に照らされ、人の顔がくっきり浮かんでいるではないですか。
「あれ、誰かおるやん。あんな高い所に上って何しとんねん?泥棒か?」
「それにしてもおかしいなー。泥棒やったら家の中の様子を窺っていそうなものやのに外向いとる。それにその身体を支えるような足場らしいもんが見えんし」
「あれ?ひょっとしてオバケ?オバケか、オモロ!そんなもん滅多に観れるもんやない。もっとじっくり見てこましたろ」
こうした考えが一瞬にして頭をよぎるや興味にかられたわたくし、ずんずんと歩を進めそのオバケらしい顔を目指し近づいてまいります。
しかしながら、近づくにつれてその顔を構成していた陰影は徐々にただの木々の葉や建物のパーツヘと分散して行き、その顔らしく見えたものは文字通り雲散霧消、消えてなくなってしまったのです。
まあ大体オバケの正体というものは、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と言うとおり、こういった見誤り、偶然の錯視がほとんどなのでございましょう。
ただ、昔から世界のいたるところでオバケの話というものが存在しているわけでございますから、それを完全否定するつもりもございません。実際そういったモノがこの世あるならば、この目でしかと見てみたい。ついでに対話が可能ならば色々と聞いてみたいこともございます。
「突然こんなこと不躾にお聞きするのもなんなんですけど、おたくさんもしかして幽霊さんでっか?」言うてね。
そもそも幽霊が居てる言う事は、あの世、つまり死後の世界があるわけで、死んでもそれで全てがおしまい言うんやなくて、テレビゲームなんかでよくある、次のステージへ進むみたいな感じでワクワクしますやん?よく言うようにあの世で懐かしいあの顔、この顔にまた会えますやん。
ウチのお父ちゃんはボクが四つん時死なはったさかい、今会おてもボクのこときっと分かってくれはれへんねやろなー?おとーちゃん!言うて飛びついていっても、なんやこのジジイ、こんな爺さんに父親呼ばわりする筋合いはない、失敬な、なんてかんじで完無視されんねやろか、なーっ、お父ちゃーん!(ここ泣くとこでっせ、泣けよ~)
前に見たテレビ番組で、モニタリング言うんですかな、昔で言うところのどっきりカメラ式の有名タレントをだまして驚かし、そのリアクションを楽しむ趣向のヤツね。
これに人気タレントの滝沢カレンちゃんとジミー大西画伯が深夜の路線バスに乗って、乗客が二人きりになったところで仕込みのオバケが登場するというドッキリ企画。そこでもうすっかり恐怖におののき、座席で固まってるジミーちゃんを尻目に、カレンちゃん平気でオバケに興味深げに近づいて行き、あまつさえ会話さえするという行動が観察されたのです。
この時の滝沢カレンちゃんのこの行動こそが、理性ある人間、神秘に対する科学的アプローチの正しい姿勢であると思うのでございます。
大体むやみやたらにそういった未知な事柄に怯える事自体、迷信などの先入観に深くとらわれているが故の、発想の自由、探求心の枯渇のなせる業。呪術に縛られ生きる未開の蛮族の振る舞いにほかなりますまい。
闇夜にうごめく白い影イコール幽霊という決めつけ、見つかったら祟られ、黄泉の世界へ連れ去られる言う何の根拠のない思い込みが恐怖を生み、折角の自然の幽玄なる神秘に触れる機会、楽しみを失わせているのでございます。
タクシーで消えた女性の話でも、もしわたくしが当事者の運転手であったら、とりあえずそのびっしょり濡れたシートの液体を指でひとすくいして臭いを嗅ぎ、舐めて味見を致すことでしょう。甘いかしょっぱいか、尿かただの水かを検証しますな。科捜研のオヤジや。
さて、ご覧いただいておりますアレキサンドライトという宝石も見る環境、そこにある光によってその石そのものの色が変化するといった、極めて神秘的な光学特性を秘めた宝石なのでございますが、この宝石とて最初の発見者がその不思議な特徴ゆえ、石に魔物や悪魔が宿り、持ち主に不幸をもたらすなどと悪い方に思い込んで廃棄してたら、今頃ここでご披露におよぶことも叶わぬところ。
このアレキサンドライトという宝石、ご承知のように1830年、ロシア皇太子の12才の誕生日に発見さてたことにちなんでその皇太子の名、アレクサンドル二世にちなんで命名された由緒正しい宝石。太陽光下ではグリーンに、白熱灯下では赤紫に見えるのはすでにこのコラムご愛読の宝石好きの皆様は先刻ご承知のところ。
ただし、この石、高額な希少石と厳めしい名前のせいか、どうしてもオーソドックスで無難なデザインが多いのでございます。ところがこちら、ご覧いただいております様に遊び心溢れるカジュアルなデザイン。普段気軽にお楽しみいただける気のはらないデザインなのでございます。このような高額なレアストーン、希少石を使ってのくだけたデザインこそ本物のラグジュアリーと言えるのではないでしょうか。
オバケはオバケでも、オバQとかキャスパー言う感じかな、ってやっぱ毎度のことながらちょっと例えが古うてすんまへん。
ギメルのでんでんむしむしかたつむり
吉田拓郎さんが引退するそうですな。
まあ、76才言うんやから歳も歳やし、だいたい普通還暦過ぎたらろくすっぽ満足に声も出んようになるんやさかい、そらしゃーないんちゃいまっか。
このオッチャンね、私らの学生時分にはそらもうエライ人気で、いわゆるフォークソングブームの文字通りのけん引役として活躍されてました。
ただね、フォークソング言うて、私らみたいな年寄が真っ先に頭に浮かぶんは、なんちゅーたかてフォークの神様言われた岡林信康さん。この人をおいて外にありまへん。
拓郎さんが「結婚しようよ」いう曲の大ヒットで一躍脚光を浴びるよりもずっと以前に、「山谷ブルース」という日雇い労働者の日常を歌に託した曲で世に出て以来、もうプロテストソング、反戦歌と呼ばれる数々の問題作を世に出し、その多くが放送禁止となったいうからタダモンやない。
例えば吉田拓郎の名前を一気に世間に知らしめた、「結婚しようよ」の歌詞、
“僕の髪が肩まで伸びて 君と同じになったら約束通り街の教会で結婚しようよ、ムフッフーン”
などという、いかにも軽佻浮薄、お気楽な文言で始まるのに対し、岡林の「山谷ブルース」はいきなりのこれや、
“今日の仕事は辛かった あとは焼酎あおるだけ どうせ山谷のドヤ住まい ほかにやるこたありゃしねー”
どうです、いかにも荒んだ、自暴自棄、明日の見えない鬱屈した日雇い労働者の心情が沸々とにじみ出てるやおまへんか?
この歌以外にも、差別と貧困という同和問題を真正面から取り上げた「チューリップのアップリケ」や「手紙」、もう涙なくして聴かれへん。それに70年代学生運動の応援歌、テーマソングのようにまでなった「友よ」。
当時の学生運動の闘士たちは、みんなこの歌唄うては気勢を上げ、角棒やら火炎瓶で武装して機動隊に突撃していったものです。なんせ歌詞からして、もうハナから闘争心を煽っとる。
“友よ 夜明け前の闇の中で 友よ戦いの炎をもやせ 夜明けは近い 夜明けは近い”
どうこれ、血気盛んな若者を思いっきりけしかけてるやん。あれから長いこと経つけど夜明けは来たんかなー?知らんけど。
まあこういった社会や政治への批判やメッセージを歌に託して歌うのがフォークの神髄と思われていたものを、一気にひっくり返し弱体化したのが吉田拓郎やそれ以降に出てきたフォークシンガーやグループたちやね。ひょっとすると当時の政権の工作員かも知れんで。
拓郎さん「結婚しようよ」以外にもたくさんのヒット曲がございまして「旅の宿」という曲では、
“浴衣の君はすすきのかんざし 熱燗徳利の首つまんで もう一杯いかがなんて 妙に色っぽいね”
なんかしてけつかんねん!腑抜けた事ぬかしやがって、ええ若いモンが!不倫旅行気分かよ、十年早いんじゃ、アホンダラ、ボケ、カス!と思わず叱咤したくなるほどの堕落ぶり。いや、まだある。かぐや姫いうグループが歌った「神田川」。俊郎ちゃうよ、言うとくけど。
この歌はその当時流行った同棲、しかも学業を本分とする学生の分際でありながら、色欲にかられ万年床で同棲する若い男女の生態を生々しく描いた歌。その一節がこれや、
“三畳一間の小さな下宿 あなたは私の指先見つめ 悲しいかいって聞いたのよ”
悲しいはずあらへんがな!悲しいのはその隣の部屋で聞き耳立てとる同級生のモテナイ君やろが。近所迷惑もええとこやでホンマ!
まあ、ことほど左様にプロテストソングの看板を掲げていたフォークソングも時代の変遷とともにどんどん変質して骨抜きとなり、その後ロックがやってきてもう若人の唄は混沌を極めたのはご承知の通り。
例えば故尾崎豊が ”盗んだバイクで走りだす” などと、窃盗教唆を歌に込めたり、サザン桑田が 、女呼んでブギ」 という曲で”女呼んで もんで 抱いて いい気持ち” などといった春歌まがいの歌詞を歌って放送禁止を食らったりと、社会の矛盾を憂い、抑圧された民衆の心の代弁者岡林先生が聴けば憤怒で卒倒しそうな歌ばかり。
まあ、この変化を堕落ととるか進歩と見なすかは人それぞれ。小生の様な昔気質、愚直な人間に取りますては、もちろん言うまでもなく岡林氏より桑田氏「女よんでブギ」を圧倒的に支持致したいのですが。
さて、歌は世につれ、世は歌につれ。流行歌というものは上述のように時代時代で大きく変化いたしてまいるのですが、実は変化、流行の乏しいように見える宝飾品におきましても、実はこの三十年くらいの間に大きな変化が起こっているのであります。それはアパレル産業に見られるような、マーケティング戦略などに基づいて人工的に作られるシーズンごとのファッションの変化というものではなく、寧ろ時代の潮流に基づく社会、経済の変化によってもたらされる、価値観の変遷によるところが大きいように思われます。
例えば、わたくしがまだ若かりし頃の所謂バブル景気真っただ中におきましては、身に着ける宝飾品はバブル経済を象徴するがごとくのこれ見よがし、ストレートな自己顕示欲の発露そのままのド派手、大ぶり、大仰なデザインが好まれたものでございます。たとえば色石を中石に据えた指輪なんかでも、バレリーナセッティングなどと呼ばれる、中石をテーパーダイアでぐるっと取り巻き、バレリーナのスカート、襟巻トカゲの様な見かけの指輪が大いに人気を博したものでございます。
ところが今やそんな大仰なこれ見よがしのデザインは野暮ったくって着けられません。なぜならば時代のニーズに合致していないからであります。
バブルのころは一億総中流などと言われたように、多くの人がにわか成金気分、身に着けるものによって、よりリッチに、よりセレブに見られたいという傾向が強く見られたのであります。
ただし、バブル崩壊、リーマンショック、コロナパンデミックと相次ぐ災難に見舞われ疲弊した日本経済にあって、今やお金持ちは圧倒的なマイノリティー、滅びゆく少数派。大っぴらに公言することが憚られる存在となったのでございます。下手に知れると、いつ何時大多数を占める貧民の反感、逆恨みを買って不測の事態に巻き込まれるやもわかりません。過度な装飾が格好の標的となって、改造銃なんかで狙撃されてはたまったものではございません。
という事で、今どきの有産階級は一見普通に見えるカジュアルな装いの中に、秘かに贅を凝らしてお楽しみになるのであります。
例えば、一見何気ないベースボールキャップとジャージにスニーカーのいでたちが、実は一流ファッションブランドとスポーツメーカーとのコラボとかで衣服のみで総額で百万円を優に超えるなんてのがその代表的な例。もっと凝ったのになると、ぱっと見ダイハツの軽トラ、エンジン、トランスミッションはメルセデス、内装はエルメスなんて言うのもあるくらい、知らんけど。
という事でこの度ご紹介いたしますは、カタツムリを模ったピンブローチ。これもそういった何のこともないアクセサリーに見せておいての、実は日本が誇る世界のジュエラー、ギメルのハイジュエリーなのでございます。
ルベライトの殻にデマントイドの目、そしてギメルご自慢の最高級メレダイアといった最高の素材を、これもギメルの最高技術のクラフトマンシップによって作り上げられた至高のエスカルゴ!
と言うたかて、どうですこの一見子供だまし、オモチャの様な見かけ。これをばルイヴィトンとコラボしたニューヨークヤンキースのデコったベースボールキャップなんぞにポッチと付けたらイカスじゃん?
きっとお仲間のセレブリティーの方々ならわかるわかるはず、「あっ!ギメル」だって。でも敢て口には出さないはず。奥ゆかしくていらっしゃるから。
負けず嫌いな女性の味方
近頃亡くなったお笑い芸人、ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんは非常に人望が厚く、そのご逝去に際してはたくさんの方が故人の人柄をしのんで嘆き悲しんでいる様子がネットニュースなどを通じて配信され、我々一般人の知るところとなったわけでございます。
彼の芸風はリアクション芸というらしく、熱湯風呂などに代表される、その身に降りかかる災難(大体はヤラセですが)に対しどれだけ滑稽なリアクションをとるかという、一種身体を張った芸を得意としており、最近とみに人気の高まりを見せる出川哲郎氏とは、その芸域での双璧として人気を二分していたとか。
芸人さんというものはなかなか大変なお仕事でございまして、通りいっぺんの事をやっていりゃ年功序列で出世していくといった生易しい世界ではございません。人よりも目立ち、突出した個性と芸がないことには、生き残っていけないという大変厳しい世界なのでございましょう。
特にお笑いの世界なのでは昔から変わった芸風を自らの持ち味とし、人気を得てきた様々な芸人の方がおります。
例えばボヤキ漫才というのがございまして、これの第一人者が、もうずいぶん前にお亡くなりになりましたが、人生幸朗 生恵幸子の夫婦漫才のコンビ。
この人生幸朗というオッチャン、度のきつそうな分厚いレンズの眼鏡を掛けて、何やら学校の厳しい教頭先生のような見かけ。そんな頑固オヤジ風な風貌で政治世相から流行歌に至るまで、手当たり次第に文句をつけてボヤキまくる。そしてボヤキの最後に必ず「責任者出てこい!」とひと吠えするのでありますが、そこで相方の幸子さんが「あんた、そんなん言うてホンマに出て来はったらどないすんのん」と突っ込むと、すかさず「そんなもん、謝ったらしまいや」とボケて爆笑を誘う、もうこのワンパターンなんですが、見てる方はそれをわかってながらも、つい笑ってしまうんですな。
あるいはまた、こちらももうかなり前に芸能の世界から引退されましたが、一時は活躍の舞台も関西ローカルから全国区へと人気も広がり、大活躍されてました上岡龍太郎さん。
この方元々は元大阪府知事横山ノックさんら三人でトリオ漫才というのをやってた方なんですが、ノックさんが議員先生になったあおりを受けて、やむ無く独り立ち。その際に看板芸として磨きをかけたのが、ディベート芸。
昔、「ああ言えば上祐」と呼ばれた、オウム真理教広報部長の上祐史浩さんという人がおりました。この人がこのディベート、つまり討論の達人。オウム真理教のスポークスマンとしてテレビなどに出た場合、そのオウム教団が引き起こしたであろう事件の疑惑を様々な論客から突き付けられるたびに、そのあだ名の由来ともなった。ああ言えばこう言うという風に言葉巧みにかわして、あのオウム教団が起こした数々の犯行をデマ、流言飛語、マスコミのでっち上げのごとくに語るといった、それこそ黒を白と言いくるめるといった離れ業を見せていたわけでございます。
こういったディベート術がこの上岡龍太郎さんも非常に巧みで、様々なバラエティー番組に出ては、霊や超常現象などのあまり大勢に影響ない所で、数々の論客や同僚芸人を言い負かすといった芸を披露し、一躍テレビの人気者となったわけでございます。実現いたしませんでしたが、当時この上岡さんと上祐さんのディベート対戦があれば大いに盛り上がり、多くの視聴者を獲得できた事でしょうに。
さて、こういった独自の芸風を確立し、オンリーワンの道を選ぶ芸人の方がいる反面、古典落語や講談といった伝統的な寄席芸などになりますと、勝手がガラッと違ってまいります。なにせ演ずる演目は全く同じ内容。演者によって多少の演出の工夫、アレンジメントはございましょうが、基本の話の筋、起承転結が同じものでございますから、観客の興味はその芸の質というものに集中いたします。目の肥えた、寄席に頻繁に通うツウなどと呼ばれるお客などになりましたら、もうハナからその出し物の筋は先刻ご承知。しかも昔の名人の誰それはこう演じた、彼はこうしたなんて言う事が頭の中に詰まっておりますから、こんなお客を感心させ、唸らせるのはもう至難の業。特に昨今はYouTubeなんかで簡単に昔の名人上手の高座の様子が窺えるからさらに具合が悪い。
同じような事を行っても、頭一つ飛びぬけて目立つようでないことには名人とは呼ばれません。
これと同様、宝飾品などでも恒久的な定番のデザインというものがございまして、こういった商品は、時代の流れに応じて、様々な変則的なデザインが生まれては消えていく中で、普遍的に変わらぬ人気で親から子へと受け継がれていくようなデザインでございます。
例えば只今ご覧いただいておりますパヴェセットのリングなどはまったく癖のない、ダイアモンドを、文字どおり、ペーブメントの敷石のようにリング上に敷き詰めた細工で、その輝きが指輪全体に均一にコーティングされているかのごとくに見せる狙いがございます。
さて、こうした定番のパヴェリング、各社各様、いろんな国内外の宝飾品メーカーがこぞって制作し、たくさんの種類が巷に出回っておるわけでございますが、こういった製品も古典芸能と同様、芸の出来いかんでその質が問われるがごとくに、そのモノの出来具合が厳しく問われるわけでございます。
同じようなものが数多く出回っている分、他人さまと被ることもままございます。そんな時比較されるのが、その品質。こういったダイアモンドパヴェリングなども場合はズバリ輝きの違い。たとえ鑑定資格などお持ちでない一般の方でさえ、二つ同様なものの輝きの差を比較判定するのは造作もないこと。見劣るものを着けてる敗者は指輪の手をこっそりポケットなんかに隠す羽目になったり致します。
ならば、絶対誰にも負けない、最後の一人になっても着け続ける事のできるダイアモンドパヴェリングをしたいもの。そういった負けず嫌いなあなた様にオススメなのが、こちらのギメル社製謹製ダイアモンドパヴェリングなのでございます。
なにせこちらギメルさん、会社からして負けず嫌い。会社の住所が芦屋市六麓荘町という日本随一の高級住宅地にあるところからして負けず嫌い。使ってる素材から細工の隅ずみのこだわりまですべて、無敵の負けず嫌い。製品全体からギメル社オーナー兼アートディレクター、穐原かおるさんの絶対的負けず嫌い、ネバーギブアップのスピリットが噴出しとる!
これなら絶対誰にも負けるもんかっ!どっからでもかかってきやがれてんだ、こんちくっしょうめ!
頑是無きわらべのまなこの如し
暑中お見舞い申し上げます。
このような初夏の候ともなりますと田舎住まいのわたくし、朝、犬の散歩などに出ますと周囲の夏めいた田園風景のせいなのか、なんとなくスタジオジブリの人気アニメ、「となりのトトロ」の世界にいる様な錯覚にしばしば陥ることがございます。
この「となりのトトロ」というアニメはスタジオジブリの作品の中でも、わたくしにとりましては特に印象深い、すごく身近に感じられる作品なのでございます。
と、申しますのもこのお話、お母さんの病気療養のために田舎に引っ越してきた家族の幼い姉妹が、その自然豊かな土地で出会う様々な不思議な体験を中心にストーリーが展開していくというもの。実はわたくしども一家も幼い二人の娘を抱え、過去に同じように田舎暮らしを選択したという、なんとなく重なり合う部分があるからなのでございます。
わが家の場合は、上の娘が幼い頃非常に病弱で、毎週のように高熱を出しては一週間ほども寝込み、小学校に上がるまでに救急搬送を含め、病院に二回も入院するというありさま。そのため、様々な種類の健康食品を与えたり、また身体に良いと言われる事を色々試してはみるものの、どれも一向に効き目が見られません。
ちょうどその頃、仕事やその他諸々の事情で引越しの話が持ち上がり、それならいっそ、転地療法ではございませんが、空気の良い郊外に移り住もうという事で、ちょうどその長女が小学校に入学するのをきっかけに、只今住んでおります大阪の端も端、奥河内などと呼ばれる現在の住所に越してきたわけでございます。
アニメの舞台ほどの鄙びた田舎ではございませんが、それでも近所にはそれこそトトロが住んでいそうな鬱蒼と木々が生い茂る小山が迫り、周辺にはまだたくさんの田園が広がり、朝夕には町内にある山寺の鐘楼の音が響き、この季節ですとカエルの鳴き声、セミの声がうるさいくらいに絶えず聞こえてまいります。
そうした、未だ舗装されぬ土の地面の多い丘陵地帯で、娘たちは小さい頃から、まさかトトロに出会う夢は叶いませんでしたが、近所の小川で無数の蛍が飛び交うのを目にしたり、夜道で突然狸に出くわしたりと、自然の恵みに多く接することが出来、そのお陰かどうかはわかりませんが長女の健康も成長とともに徐々に改善されてまいったのでございます。
豊かに実った田んぼの稲穂が突風で一斉に揺れ動く様を見ては、「ほら、猫バスが通ったよ!」などと言ってはその瞳を輝がやかせ、はしゃいでいた娘たちですが、今でもそういった光景を犬の散歩途中などに目にするたびに、そのことが懐かしく想い出されます。
あるいはまた、夏ともなれば毎年、家族で白浜へ泊りがけで海水浴に訪れることが我が家の年中行事の一つになっておりました。昔は今のように白浜まで高速道路が全面開通しておらず、同じようにバカンスに向かうファミリーカーで渋滞する一般道を結構な時間、慣れぬ長距離運転でへとへとに疲れ果ててたどり着いたものでございます。しかしながら、水しぶきを上げはしゃぐ娘たちのキラキラ輝く瞳を見れば、そんな苦労もいっぺんに吹き飛んだものでした。
今はそんな娘たちも、曲りなりにも社会人となり、こちらも子育ての苦労からは、一応開放され肩の荷が下りてホッとしてのんびり過ごせば良いはずが、この夏の到来とともになぜか過去の娘たちと過ごした季節の想い出が蘇り、一抹の寂しさを感ぜずにはおれません。
あの歓喜に満ちたキラキラ輝く娘たちの瞳を目にする機会はもう二度と訪れないのですから。
ああ、こんなことならあの頃、仕事の付き合いとはいえ、深酒の末の深夜の帰宅を減らして、子供たちと接する時間をもっと多く持てばよかったものをと、取り返すことのできない時間を悔やんでみては独り酒、手酌酒、演歌を聞きながら、分かるよなあ酒よ。って分かるか!
と、言うわけで、今回は当店一押し、ティファニーバイザヤードペンダントのダイアモンドの輝きを、このおさな子の瞳の輝きに例えてご説明いたしたい。かように思うわけでございます。
ティファニーバイザヤードペンダントのダイアと、普通に市販されている国産のダイアモンドプチネックレスのダイアモンドとどう違うかをご説明いたします時、ダイアモンドの4Cを持ち出し、光学特性がどうだとかいったカタイ話を致しましたところで、どうもイメージとして想像することが難しい。
そこで一番の比喩として思い付いたのがこれ。というかティファニーの至高のダイアモンドを見つめるうちに、我が子等のあのキラキラ輝く瞳が記憶の中に蘇ってきたのでございます。
さて、目は口程に物を言う、あるいは目は心の窓と申します。人間も長年世間の荒波にもまれてまいりますと、良い様に言えば世間知、悪く言えばワル知恵が付いてまいりまして、心が様々な煩悩によって曇ってまいります。そうすると、この心を映す窓たるべきマナコの方も当然のごとく曇ってまいります。これが世間一般に流通しております一般的なダイアモンドプチネックレスに留まっておりますダイアモンドといたしましょう。
さすればティファニーバイザヤードペンダントの場合は如何にと申さば、そのすべての製品にセットされているダイアモンドはティファニー社の高度な商品品質管理のもと、厳選された最高品質のダイアモンドのみで作り上げられ、まさにその様は汚れを知らぬ童子の瞳。夢と希望に満ち溢れキラキラと光り輝く歓喜そのもの。
この穢れ無き煌めきを身に着けることにより、あなた様の荒んだ心も自ずと清め癒されることでしょう。
あたかも童子の清らかな瞳に見つめられるが如くに。
モードなあなたにオススメ真珠の首飾り
an・anという雑誌は今もあるのでしょうか?
わたくしの若かりし頃にはこの雑誌と、もうひとつnon‐no という、いわゆるファッション雑誌が若い女性の間で非常に人気がございまして、これらの読者層を指して、そのライフスタイルもひっくるめてアンノン族などという言葉で呼ばれたりしたものです。
わたくし当時は男の子であったので、って現在も男の老いぼれ、所謂ジイさんですが、そんな女子供の読むような雑誌には目もくれず、ひねくれ者サブカルオタクの愛読書、ビックリハウスや宝島ばかりを熟読していたわけでございます。が、しかし偶然、仕事の休憩時間に喫茶店で何気なく手に取ったアンアンを見てガーン!と雷に打たれたような衝撃をうけたのであります。
そこには得も言われぬ美しい女性がモードなワンピースに身を包み、アンニュイな表情を浮かべ写っているではございませんか!不詳わたくし一瞬にして、<惚れてまうやろー!チャンカワイ>となってしまったのは言うまでもございません。ってその頃はまだこのチャンカワイギャグは生まれてなかったわけですけど、といって今では少し古びた感じは否めませんが、念のため。
当時人気のポップアーティストで、加藤和彦氏などの有名ミュージシャンのアルバムジャケットなどを手掛けていた金子國義画伯の絵から抜け出したような、その愁いを含んだ謎めいた表情、日本人離れした、否、現実離れしたその何とも言えぬ美貌に若かりしわたくしはもう一瞬にして金縛り。虜になってしまったのでございます。
さてその美女というのは誰あろう、当時の人気モデル甲田益也子さんなのでございます。
さあ、それからというもの、すっかり彼女の魅力に取りつかれたわたくし、彼女の麗しいお姿が掲載される雑誌アンアンをしばしばこっそり購入するようになったのでございます。
こっそりと申しましたが、女性向けファッション雑誌を若い男が購入するのは想像以上に気恥ずかしいもので、まだエロ雑誌を購入する方がよっぽどまし。したがいまして屈折した心根のわたくしは、愚かにもエロ雑誌の下にこっそりアンアンを忍ばしてこそこそと購入したりしたものでございます。
当時、わたくしすでに宝石店の従業員として、すでに社会人していたわけでございますが、同僚女子社員のひとりがわたくしの熱い甲田熱を知ると、まさに飛んで火にいる夏の虫とばかり、甲田益也子さんそっくりの、その人の友人を紹介してくれるというではございませんか。
マ、マジっすか?と食い気味に尋ねる私にその同僚曰く、
「うん、ほんま本人かと思う程そっくりやねん。甲田さん体調不良の時はモデルの代役が務まるんか思うくらいやし、身長も確か170センチくらいで甲田さんといっしょくらいなんちゃう?」
と、長身女子好きの私がさらにのぼせ上がる嬉しいことを言ってくれるではないですか?
もちろん当時は、お付き合い願う彼女すらおらぬ寂しい独り身の私、まさに猫にマタタビ、アル中にワンカップ、こんなありがたい話に飛びつかぬわけはございません。
「頼むわー!あんじょうたのんます!恩に着ます!拝みます!」
さて紹介当日、待ち合わせの場所に現れたのはまさに甲田さんご本人かと思うほどの目を見張るような美女、という前夜の正夢を裏切って現れたのは、映画「帝都物語」で妖術を操る怪人、加藤保憲を演じた怪優、嶋田久作さんそっくりの女性。長身がさらにそれに油を注いどるがな。
「ちょっとまってーな!話が違うがなー」と口には出さねど、もろに表情に表し、同席してた紹介者の同僚女性をにらみつけるも、その人まったく悪びれるそぶりも見せず、
「なっ、そっくりやろ!」と言うから、さらにおったまげ!(こいつにはホンマにそう見えんねや!どんな目ぇしとんねん?アホンダラ!)
閑話休題:そもそも大体女性同士には暗黙の了解があるのか、友人知人の女性の外見についてけっして悪く言うことがございません。お目にかかったことのない第三者の女性の美醜を、その人物を知る女性に聞くと、必ずカワイイとかキレイなんて嘘をつきます。虚言を弄します。それが為、女性からの彼女紹介はくれぐれも注意してかからねばなりません。わたくしの乏しい経験においても、可愛いと聞かされ、紹介された女性で、正にそのとおりであったためしは一度たりともございません。もう悪意すら感じるくらい。その点やはり同姓である男性の評価は的を得て大きな狂いはございません。男性の方は彼女を紹介してもらうならくれぐれも同姓からのオススメに従うようにいたしましょう。
さて、甲田益也子ならぬ嶋田久作を紹介され一瞬は困惑したものの、そこはそれ、西村賢太氏同様、何事も現実主義、プラクティカルを行動指標といたしますわたくし。いつまでも叶わぬ夢を見ていてもしょうがありません。絵に描いた餅をいつまでも指をくわえて眺めているより、目の前にある金平糖一粒。言ってみりゃ、こちらとて草刈正雄や阿部寛などとは程遠いひょうろくだま。毒食らわば皿までと、腹をくくって仲介役の同僚を介してお付き合いを申し込みます。
するとどうでしょう、「いまいちピンとこない」などという曖昧模糊とした理由により先方からお断りのお返事。
まあ今となれば数々ある若かりし頃の苦々しい思い出の一つですが。
さて、そんなことより、わたくしの若かりし頃、女神とまで崇め憧れた甲田益也子さんが纏うようなモードな装いにピッタリなのがこちらのパールネックレス。
パールネックレスというと、どうしても冠婚葬祭用の真珠の珠のみで組んだ連のタイプがイメージとして強いのでございますが、こちらのこの様にピンクゴールドのミラーボールを間に挟んだ鎖との組み合わせのタイプになりますと、もうめっきりとモードな感じ、お洒落感が一気に高まります。
しかもこちら109cmのロング丈のネックレスでありながら、その造りがご覧の様に華奢で軽快な感じでございますれば、今の様な夏場であっても軽やかなワンピースに一重、あるいは二重巻きなどで合わせて頂きましても、清涼感こそ一層アップすれど、けっして重苦しい感じにはなりません。もちろん秋冬もあなた様のお洋服のコーディネートの強い味方になってくれることは請け合い。
この優れもののジュエリーの力を借りれば、たとえ怪人加藤保憲演じる嶋田久作似の女性であっても、見事立派に美女、甲田益也子さんに化けおおすことが出来ることでございましょう。って、ちょっと無理か?
「遊星からの物体X」を彷彿とさせるペンダント
蛭子能収という作者の名前、エビスヨシカズというのがのっけから読めんかった。
いったい今からどれくらい前になるのでしょうか、わたくしがまだ学生の頃、大阪梅田の若者向けファッションビル、今は無き阪急ファイブの本屋で平積みになってた漫画本「私はバカになりたい」。
そのぶっ飛んだタイトルと表紙のへたくそな絵、それに解読不能の作者名に惹かれてその本を手に取り、パラパラめくってみて、まあ、ビックり!
後年ヘタウマなどと呼ばれることになる、まるで公衆便所の卑猥な落書きのような稚拙な絵とシュールなドラマ展開をみせる奇妙奇天烈な漫画が満載。
なんじゃこりゃー!?の衝撃を受けるがまま、早速その本を贖い家路を急ぎ、帰宅後はまるでむさぼるようにしてこの漫画本を読み耽り、早速翌日には二冊目を買いに走った記憶がございます。
さて、それから何年か経ったある日曜日。テレビを何気なく点けると、むさくるしい変なおじさんが出てて、熱湯風呂に無理やり入れられ奇妙なリアクションをしている。最初はお笑いの人かとも思ったけど、それにしてはけっこう老けているなー、と思ってたらなんと、エビスさんとみんなから呼ばれている。まさかと思いさらに見続けていると、やはりこのオジサン漫画家の蛭子能収その人だったのです。
いや、しばらく漫画も見かけないなーと思っていたら、なんとテレビタレントに転身していたんですねー!これにまたビックり!
さてこの蛭子能収という人物、ネットで検索するとアスペルガー症候群だとか、サイコパスはたまたメンヘラだとかいった評判が数多く出てまいります。
例えば、人の葬式に参列すると笑いがこみ上げてきてどうにも止まらないとか、チャリティー番組「24時間テレビ」に出演しているにも関わらず、自らは貧乏だからと寄付を拒絶する。あるいはまた、そのテレビタレントとして最も注目を集めた人気テレビ番組「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」においての奇行の数々。たとえばせっかく海の幸が豊富な漁師町なんかの旅館に宿泊しても、他の出演者が当然の如く名物の魚介類に舌鼓を打ってる隣で、独りトンカツ定食をむさぼり食うといった具合で数え上げればきりがないほど。
まあ実際漫画家だけに限らず、創作にかかわる人とか、テレビタレントなんかの場合、やはりその個性というものが大切で、たいていの人はそれを自己演出といった、ある程度演じている部分が多いのだと思うのですが、こと蛭子さんに関しては全くのギミック無し、本物のピュアな変人。
似たような例で例えるなら、これもテレビタレント、ローラと滝沢カレンの違い。
最近はすっかり見かけなくなってしまいましたが、ローラさんというモデル出身の女性タレント。この人のウリはそのハーフという事を逆手に取り、日本語がうまく喋れず、また日本の厳しい人間関係のヒエラルキーが理解できないという設定のキャラを作っていたようで、先輩、大御所にもタメグチで喋って、叱られると変なリアクションで返したりするのが面白いと一躍人気になったのでございます。
しかし、やはり本物にはかなわない。後から出てきた、これも本職はモデルの滝沢カレンちゃん。彼女も今何かと話題のウクライナの人とのハーフらしいのですが、実は幼少の折に両親が離婚し、日本人のお母さんによって日本で育てられた、まったく日本語しか話せないウエンツ瑛士同様の見せかけだけのハーフ。それにもかかわらず話す日本語が変。変なのは何も日本語だけに留まらない。その思考パターン、行動パターンが何やら人とずれているかなりの不思議ちゃん。この本物の天然キャラが功を奏し?一挙にタレントとしてのローラの座を奪い去ったといって過言ではございますまい。
これと同様蛭子氏の奇妙奇天烈なヘタウマ漫画も、敢て奇をてらい、伝説の漫画オタク雑誌「ガロ」掲載に向けに作ったのではなく、逆に彼のその特異な個性そのものから自然に湧き出た奇妙な作品を、ご奇特にもガロが、否、ガロなればこそ見事拾い上げたといった方が的を得ていると言えるのではないでしょうか。
なにせ、漫画の神様と呼ばれる、かの手塚治虫先生をして、あんなのを野放しにしたら私が築き上げてきた日本漫画がダメになると言わしめた程。天才手塚治虫を震撼とさせた恐るべき破壊力なんですから。
さて、ご覧いただいているこちらのペンダントも、そういった一般的基準からやや外れた天然素材を巧みに取り入れて作り上げられた、かなり奇抜な製品なのでございます。
ご覧いただいております大ぶりなデザインのペンダント兼ブローチ。あたかも蛭子先生が描いた、伝説のカルトSF映画「遊星からの物体X」に出てくるエーリアンのごときユニークな見かけなのですが、製品全体を豪華に埋め尽くす宝石は、なんとすべてがダイアモンド。その合計の石目は7.58キャラット!しかも結構大粒の石が多く使われております。
さあ、通常これだけのダイアモンドを気前よく一つの製品にぶち込みますと、中古と言えど、とんでもないお値段になるは必定。
ところがどうですこのお値段。中古と言えど、この見場からすれば随分とお安うございましょう?それもそのはず、大きいダイアモンド内包物はそんなに多くもないのですが、みんなブラウンかイエローの、残念ながらファンシーとまでは言えぬグレード。ここでコストを大幅に倹約してるってことなんです。
ただどうです、これが全部無色ダイアで作られてるより、こういった微妙な色違いのダイアで変化を付けて中心にだけファンシーイエローのメレダイアをポイントで持ってくるというダイアモンドの配し方、面白いと思われませんか?
無色透明完全無欠のギメルのパヴェも良いですが、こういった常ならはじかれるような素材をあえて組み合わせた遊び心ある工夫も、遊び心がもう縦横無尽に溢れるかえる自堕落な放蕩マダムのあなたなら解るはず。でしょ?
筆者:ハリー中野
|
|
自己紹介
|
1979年、大阪の老舗宝石店に入社以来、上は香港ペニンシュラホテルから、下は田舎の地場産業振興会館まで、
ありとあらゆる場所で宝石の伝道師としてジュエリーの普及に尽力。
現在はマルヨの姉妹店ドゥペールノエルにて正しい宝石の買い方からお手入れの仕方まで、
懇切丁寧な接客をモットーに主婦層を中心に幅広い支持を得るにいたる。
自称「宝石の伝道師」
「GIA(米国宝石学協会)」認定資格「GIA.G.G」保持
ドゥペールノエル退職済み
|
担当業務
|
宝飾品プロデュース、プロモート、コンサルト、商品コメント、ブロガー、Twitter
|
元ベテラン店長のひとこと
このような神秘的な宝石をお洋服と上手にコーディネートされますとオシャレ度が一機にグンとアップしますのよ奥様。