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真珠への想い
真珠への想い
初代より受け継がれる土居真珠の伝統 真珠への熱い想い 土居真珠3代に渡る真珠に対する想いを熱く語ります。
真珠への想いは世界一です。
初代
土居
延徳
裸一貫、焼け野原からのスタート
1957年、宇和島市三浦の土居延徳は、アコヤ貝の稚貝の採苗を始める。 これが土居真珠の歴史の幕開けとなる。 延徳は1925年11月1日、農家の9人兄弟の長男として生まれる。 祖父は農業の傍ら、10人ほどの弟子を抱えた大工でもあった。 祖父と父親は養子だったため、延徳の誕生は、土居家の直系男子としては三世代ぶりとなった。 終戦後、名古屋から宇和島に戻った延徳は、街の変わりように驚かされる。 市街地は宇和島駅周辺も含め一面焼け野原。焼けたトタンで屋根だけ作った粗末な家が数軒並んでいた。 宇和島に帰った延徳はすぐに結婚する。 相手の家は比較的裕福だったので、苦しい時期には援助を受けた。 その当時、三浦地区では、県外の会社が真珠養殖は始めていた。 これに魅力を感じた延徳は、土居家の田畑を弟たちに全て譲り、裸一貫で真珠養殖に乗り出すことを決意する。 ここから土居真珠の歴史がスタートする。
飛躍の2年目。養殖事業が軌道に乗る
延徳は「神様が助けてくれたと思いましたね」と2年目を振り返る。 収入の無かった1年目を乗り越え、養殖事業2年目を迎えた延徳の養殖場は、たくさんのアコヤ貝の稚貝で溢れた。 養殖は天候や潮の流れに左右されるため、年によって生産量は大きく変わる。 この年は「豊作貧乏」と言われるほど、たくさんの稚貝が育った。 ザル一杯で1万円の値が付いた。しかも取引はすべて現金。 当時、宇和島市の三浦豊浦地区約100軒の中で、年収が20万を超える世帯は5軒あるかどうかという時代に、延徳の手元には300万円が残った。 そのころ愛媛県の水産課が真珠養殖に着目し、三重県や和歌山県などに先進地視察を始めた。多くの真珠関係者が視察に参加する中、県は延徳に優先的に先進地視察を依頼してきた。 始めたばかりとは言え、確かな技術と目を持つ延徳に、少しでも多くの情報を吸収して欲しいとの思いからだった。 三重や和歌山などの先進地視察から帰ってきた延徳は、愛媛県内の各漁協を回って報告会を行った。 こうして愛媛県の真珠養殖技術は確実に地域産業として向上していった。
真珠母貝養殖からの脱却。真珠養殖の開始
しばらくすると、全国各地の真珠養殖漁場で、異変が見られるようになった。それまで真珠業界をリードしてきた漁場の生産量が、軒並み落ち始めたのだ。延徳が視察に訪れた三重県五ヶ所湾の内出漁港も生産量が落ちた。 その原因は、漁場が都会に近かったこと、真珠漁場の隣でハマチの養殖をしていたことが考えられた。 真珠養殖とハマチ養殖の漁場をできるだけ離す必要があると考えた延徳は、県の水産課に対し、真珠とハマチ双方の漁場契約を今すぐ見直すように訴えた。しかし、期待していた成果は全く得られなかった。 この頃、真珠養殖とハマチ養殖の漁場が近いと海がダメになる、ということは漁業関係者の間では常識となりつつあった。 ハマチは餌にイワシなどの生餌を使うため、残った餌が海底に貯まって腐り、海が汚れるのだ。 当時、県の水産試験場は、そのことを突き止めていたが、ハマチ養殖の経済効果も大きいことから改善の道は困難を極めた。 一方で、真珠養殖は"流行"に左右されるため、数年ごとに業界不況が生じる。 例えばミニスカートが流行った年は、真珠がミニスカートに合わないという理由で売れなくなった。また、当時の海外向けの真珠販売は、一旦アメリカを経由することが多かった。そのためアメリカの国内景気が悪くなった年は、国際的な真珠取引は大きく低迷し、輸出量は落ち込んだ。 養殖業者の売り上げは、世の中の流行や国外の経済状況に左右されるという、不安定な状況の中にあった。 このような状況を打破するために、延徳は母貝養殖だけでなく、真珠製造の必要性を感じていた。 しかし、昭和30年代中頃までは、真珠製造は大手真珠養殖会社が独占しており、地元養殖業者はどこも母貝の養殖だけを行っていた。 当時、真珠の養殖は県の許可制だったため、大手真珠会社は地元養殖業者に真珠養殖の許可を出させたくなかった。 しかし県は真珠産業の育成には、地元の母貝養殖業者に真珠養殖技術を身に付けさせる必要があると考え、1962年に真珠製造の「第一次許可」を実施。宇和島地区で真珠養殖が始まった。 最初は延徳を含む9人が許可を受け、木造のバラックの建物の中で作業を始めた。
漁場を求めて全国へ。小豆島での大珠の生産を開始
真珠が儲かるとわかると、地元の人たちはこぞって真珠養殖に参入してきた。 たちまち宇和島湾の漁場は魚類養殖の発展とともに「漁場の酷使」に繋がり、養殖環境は年々悪化した。 目に見える被害が出始めると、延徳ら真珠養殖業者は、県の水産課を訪れて改善を求めたが、思うように改善は進まず、致し方なく、全国に漁場を求めることになる。中でも宇和海と小豆島の持ち味を活かした大珠作りは特別な想いがある。 大珠は通常の珠に比べ値が高く、その後、土居真珠は特異な分野として大珠中心に取り組んだ。
二代目
土居
秀徳
真珠養殖から加工・販売への挑戦
秀徳は、真珠養殖の好況期と不況期とを身をもって体験する。 1965年頃は、真珠養殖の世界は著しく成長しており、業者も年々増えていった。他社に後れをとらぬよう、真珠養殖に力を入れる一方、生き残りをかけて真珠の加工・販売事業の拡大を模索し始めた。 秀徳は20歳の頃に真珠加工の免許を取得する。 当時、真珠の加工には「真珠法」に基づく免許が必要で、秀徳はいち早く神戸で免許を取得した。それからわずか数年後、真珠業界は生産過多に陥り、真珠の価格は暴落、真珠業界は一気に冷え込む。幸い真珠加工を始めていた土居真珠は、この影響を最小限に抑えることができた。 この時秀徳は、真珠の加工・販売の必要性をより一層実感したという。 「不景気だからといって、泣き寝入りするのは嫌だったんですよ。真珠が安ければ工夫して高くしてから売ればいい。養殖がダメなら、加工して販売すればいいという考えを常に持っていました」。 1983年、秀徳はレコード会社に勤めていた弟の章展を説得し、真珠の加工を学ばせるために親交のあった神戸の真珠加工会社に修行に行かせる。 1987年に章展が戻ってくると、本格的な真珠加工販売部門を立ち上げ、土居真珠のもう一つの柱を立ち上げる。結果的に弟に加工・販売を任せたことで、秀徳は真珠養殖事業の維持・発展の道を選択することになる。
漁場の環境保全、経営環境の改善に邁進
1979年、漁業後継者が集まり三浦漁協青年漁業者協議会が結成され、初代会長に秀徳が就任する。 当時、全国的に漁場の荒廃が進んでおり、協議会でも「健全な漁場の確保」というテーマを掲げ、積極的な活動を展開した。 漁場荒廃の要因としては、真珠養殖自体の「密殖」に加え、魚類養殖と真珠養殖が同じ漁場を使うことの弊害が指摘されていた。 当時の魚類養殖はすさまじい勢いで成長しており、地域としても魚類養殖を一方的に規制することはできなかった。漁場を共有しつつ、健全な養殖活動を維持することが大きな課題となった。 また、高度経済成長の歪から、「獲れるときに獲れるだけ獲る」というような間違った競争意識が生まれていた。 協議会では儲け優先ではなく、道義やモラルを追及していこうとする動きが自然と出てきた。 「しっかりしたテーマを持って様々な課題に取り組みました。メンバーもみんなイキイキしていました。」 秀徳は36歳で宇和島市の市議会議員になる。たちまち家業の真珠養殖と議員活動とを両立しなければならない立場になったが、一真珠養殖業者の視点だけではなく、公的な立場にいるものとして、地域経済全体の視点から漁場環境の問題に取り組んだ。「政治と現場のパイプ役、として力を注いでいるところです。真珠業界をこれからどうしていくのかを業界や組織を上げて考えなければいけない。協同組合的な古い慣習や体質を切り替え、ビジョンを持ってみんなで話し合える環境が必要。」秀徳は真珠事業を「究極の付加価値産業」と捉え、それを戦略的に磨く手段を模索している。 まずは一人でも多くの関係者に問題意識を共有してもらうことが、自らの使命だと位置付けている。
良い珠を作る4つの要素
従来、質の高い真珠を作るには、「漁場」と「技術」と「母体」の3要素が必要だとされてきた。 秀徳はこれに「管理」を付け加える。「漁場」「技術」「母体」が完璧でも、その後の「管理」を怠ると良い玉はできない。母貝が玉を育んでいく過程での生理状態の善し悪しが玉の出来に影響を与える。生理状態が悪い時期に育った玉は、真珠が"ぼけたような輝き"になるという。 現在の真珠づくりは、これら4要素を完璧にすることが求められている。 4要素の一つ「母体」が深刻なダメージを受けたことがある。1994年秋に起こったアコヤ貝の「異常へい死」だ。その前兆は宇和島湾の赤潮となって表れた。この年の赤潮は、最初に海面が赤くなり、次に真っ黒に変色する。 それがやがて牛乳のような白色なり、最後は一気に透明度が高まり、青っぽいスプライト色になったという。同じ時期に宇和島市の南にある愛南町でも異常へい死が始まり、1996年には、全国へと広がった。その後の研究により、2006年ごろから、品種改良された病気に強い貝が使われるようになり、真珠養殖に復活の兆しが見え始めた。異常へい死勃発以来10年を要したのである。 二代目・秀徳の時代は、漁場の荒廃やアコヤ貝の大量へい死などの自然環境との闘いや、無計画な漁場拡大による過剰生産等、漁業者自ら課題に加え、バブル経済の崩壊、世界的不況という外部要因との闘いの時代でもあった。
三代目
土居
一徳
宇和島を出て、宇和島の魅力に気付く
秀徳の長男・一徳は、地元の高校を卒業後、東京水産大学(現:東京海洋大学)に進学する。 水産系の大学ということもあり、友人の多くは釣り好きで「宇和島は目の前が海で、いつでも釣りができていいね」とよく言われたが、当時、釣りをしなかった一徳にはピンと来なかった。 「確かに目の前は海でしたが、その魅力には全然気が付いていませんでした。宇和島を離れ、友人から指摘されて初めて興味が湧くというか、宇和島がすごく魅力的に見えましたね。」同時に家業である真珠が日本一だということに感銘を受ける。 「日本中の市町村を見渡しても、日本一のものを持っている街って、そんなにないですよね。単純に真珠が日本一ってすごいなと思いましたね。真珠だけでも何かできるのではと。」 一徳は大学の恩師である岡本信明先生の勧めで、在学時から真珠科学研究所で研究者として務めた。 その後、留学先のアメリカで、偶然、故郷・宇和島のニュースを耳にする。 「宇和島には真珠だけでなく、魚類養殖、牛鬼、闘牛、宇和海など、素晴らしいソフトがたくさんある。これらうまく活用すれば、世界で勝負できる街になるのではと直観的に思いました。」
真珠の新しい可能性を探る
一徳は留学先のアメリカから帰国後、宇和島で家業を継ぐ。 事業のメインを養殖から販売へとシフトすることを考えていた一徳は、真珠にはどんな可能性があるのかを見極めるために、真珠に関係するいろいろなものを組み合わせることを始める。 宇和島を訪れた観光客に真珠養殖場を案内する「真珠養殖体験ツアー」もその一つだ。幸い土居真珠には、ツアーに適した土壌が備わっていた。ほかの養殖場に比べて長い筏、見学者を集めることができる建物。そして何より、祖父・延徳の時代から受け継がれてきた、見学客を自由に受け入れる社風が、ツアーを成功へと導いた。 このツアーが評判となり、2007年に全日空のツアーに取り入れられる。 そこで地域のスペシャリストとしてツアー参加者に地域の魅力を案内する「感動案内人」に任命された。宇和島市内では唯一の「感動案内人」だ。 ほかにも一般顧客に真珠貝の里親になってもらう「パーリィ倶楽部」の運営、「パールジュエリーデザインコンテスト」への出品、真珠の粉を使った化粧品作り、そしてその化粧品を使ったご当地エステ「パールエステ」の開発など、次々と新しいことに挑戦していった。
環境に配慮したものづくりを目指して
特に真珠の粉を使った新しいものづくりには特別の感情を抱く。「自分たちのような真珠に関わる仕事というのは、自然の恩恵を受けてものづくりを行っています。これは必ず自然にダメージを与えているはずです。我々はその自然に恩返しをしなければならないと思っています。」 一徳は真珠を採取した後のアコヤガイの貝殻の真珠層の部分を使い、真珠の粉「パールパウダー」を開発した。パールパウダーの成分が美容に良いと言われ、化粧品または食品などの材料に使用されている。「量としては微々たるものかもしれませんが、このような環境に配慮したものづくりの意識が広まってくれるといいですね。」 そしてそれらの取り組みが評価され、土居真珠のパールパウダーは愛媛県資源循環優良リサイクル製品に指定、愛媛県より「愛媛の誇れる企業50社」、経済産業省より「がんばる中小企業・小規模事業者300社」に認定された。 「不景気、不景気というけど、当社の場合、真珠が儲かるから参入したわけではないし、祖父が真珠養殖を始めた頃とそんなに状況は変わらないと思うんですよ。景気が悪いといっても、ご飯は食べられているし。まだやっていないこともたくさんあります。そういう意味では、真珠業界が成長する可能性はまだまだあると思います。」
業界全体が活性化することが大切
直接事業には関係ない"遊び"の分野でも、真珠にとことんこだわっている。 養殖筏にイルミネーションを取り付けた「海のほたる」や養殖場の「ライブカメラ」だ。 ライブカメラは、アメリカ留学時にインターネット環境の整備が事業拡大に不可欠と実感し、取り付けたものだ。 一徳の住む宇和島市の三浦地区は道路に信号も無い海岸沿いの田舎町。一徳が宇和島に帰省した時には、もちろん会社周辺にブロードバンド環境は全くなかった。電話会社に問い合わせても環境整備の予定は「未定」だった。 そこで一徳は、署名を集めるなど、環境整備に向けた活動を始める。そんな中、宇和島市の市町村合併事業の一環として、宇和島市内の公共施設を光ファイバーで結ぶという話を耳にする。それまでに集めた署名と一緒に、光ファイバーの民間への開放を陳情したところ、その提案が認められ、モデル地区として一徳の住む三浦地区にブロードバンド環境が整備された。 余談ではあるが、この事業が発表後、三浦地区と同じような環境にある地域から宇和島市にたくさんの陳情があったという。現在では宇和島全域での光ファイバーの使用が可能となっている。 土居真珠の事業の核は真珠にある。真珠そのものに加え、真珠に関係する全てのものから"可能性"を掘り起こすことで、真珠業界を活性化していくことを目指している。 「真珠業界全体が生き残っていくことが大切で、みんなが生き残っていける組織やシステム作りが必要だと思います。昔のやり方だけではなく、時代にあったやり方に変えていくべきだと。」若き経営者の挑戦は始まったばかりだ。
土居真珠について