このページはバックナンバーです。(2005年2月28日発行)

美空ひばりと日本のジャズ(第1回)

 本のジャズ界を戦前に遡ると、歌手ではディック・ミネや二村定一、そしてエノケンらの名前が挙がるだろう。ダンスホールやミュージカルの舞台で彼らが歌っていた、いわゆるポピュラー・ソングは一世を風靡したが、戦時下では敵国の音楽とみなされ、一時姿を消すこととなる。コロムビアで活躍していた服部良一や中野忠晴らの指揮するオーケストラも同様に鳴りを潜めた。

 後まもない昭和21年、地元・横浜で初舞台を踏んだ美空和枝は、翌年から美空ひばりを名乗り、本格的に歌手活動を開始。24年にコロムビアからレコード・デビューを果たした。第2作「悲しき口笛」のヒットで専属契約を結んでからは、「東京キッド」「私は街の子」「あの丘越えて」など立て続けにヒットを飛ばしてスター街道を驀進するのだった。注目すべきはデビュー曲が「河童ブギウギ」であったこと。「東京ブギウギ」を歌った笠置シヅ子の物真似が得意だったことの表われで、ひばりはデビュー前からその作者である服部良一のモダンな音楽に親しんでいたことになる。

 和26年、日米講和条約に伴い、米軍の引き上げが始まると、それまで進駐軍の基地で主に演奏していたジャズ・バンドがナイト・クラブや全国各地でのコンサートに拠点を移し、ジャズ・コン・ブームへと発展する。シックス・ジョーズやビッグ・フォーをはじめとするスター・プレイヤーを生み出していった。その頃ジャズでデビューして人気を得た歌手が江利チエミや雪村いづみ。彼女達はちょうどひばりと同年代であったから、お互いを意識せずにはいられなかった筈である。やがて「三人娘」のひとりとなるひばりが、ジャズをレパートリーとする様になるのは、当然の帰結であった。少々遠回りしてしまったが、ブギでスタートした本来の路線に戻ったと考えれば良い。歌謡曲と並行して「アゲイン」や「A列車で行こう」などをレコーディングして、ジャズ・シンガーとしての実力を見せつけたひばり。40年に出されたアルバム『ひばりジャズを歌う』は、前年に亡くなったナット・キング・コールの追悼盤として、故人の代表曲を見事に歌い上げた傑作と名高い。
(第2回(3月14日発行)につづきます。お楽しみに。)>>> 「第2回へ」

鈴木 啓之(音楽評論家)
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