19世紀末から20世紀初頭(日本ではちょうど明治維新により西洋文化の影響を大きく受け始めていた頃)にかけて、ヨーロッパでは産業革命が進み、科学の進歩によって、数多くの技術革新の恩恵が人々の間に幅広く浸透し始めていました。
医学的な研究、とくに細菌学の分野では、バステゥールとその後継者たちのおかげで、衛生と健康のあいだに存在する相関関係がようやく認められるようになります。
健康に有害な微粒子や極小の有機体が大気中に存在することが事実として認識されるようになり、その上細菌やウィルスは、人間と動物の主要な疾患媒体として認められ、最大の注意を払って解き明かすべき見えない敵と考えらるようになりました。それでもほとんどの民衆にはなかなか認識が広がらなかったのですが、生活の条件が向上してくると、この時代にあった病原菌や悪臭から身を守りたいと願う人が多くなりました。
空気の殺菌や衛生設備の改善が活発な研究の対象となり、すみやかに具体的な成果となって現れました。汚染んに一番さらされやすい職業の環境、たとえば病院や死体安置所、屠殺所、汚染を引き起こしやすい事務所などを対象に組織が本格的に活動を展開しました。
その後、それが個人の家庭にも徐々に応用されていきました。このような好ましい背景のなかで、防腐剤、除煙剤、消毒剤など、新しい器具も出現しました。それらは二つのカテゴリーに分類されるもので、一つは、固形の消毒剤が自然蒸発によって機能する消毒の装置、もう一つは触媒燃焼の原理に基づいて作られた煙を吸収する衛生デュフューザー、あるいはバーナーでした。
ランプベルジェの発明は、後者に属するもので、一人の薬剤師により開発は完成されました。
ランプ・ベルジェの創設者モーリス・ベルジェ(薬剤師)は、ランプを発明する以前は、ローマ通りのバイー薬局で助手として働いていたといわれています。彼はそこで出会いを果たしたルイ・ミュレールのランプシステムに、触媒作用によるバーナーの原理を活かし改良することで、確固とした開発品を完成させ、1898年6月16日に特許を登録することで、研究の結果を発表しています。そして、開発されたランプは、1910年モーリス・ベルジェが初めて看板を上げた店(「オゾサントゥール」)で、他のいくつかの商品と共に販売されました。こうしてベルジェ社のランプは、産業的に、また芸術的な観点からも長い冒険が始まったのです。
1910年モーリス・ベルジェは以前靴屋があった場所(デュフォー通り18番地)を借り、「オゾサントゥール」という店の看板を揚げ、店員一人と妻に助けられながら、2つの発明品(衛生ランプ、トイレ・浴室用自然蒸発型装置)の商業化をしました。この頃、ベルジェ氏は衛生ランプがそれほど成功を収めるとは予想していなかったようで、店には彼のもう一つの発明品である自然蒸発装置「オゾサントゥール」の名前を取ったそうです。事業は1920年代初めから少しずつ発展し、1912〜1925年には、国際見本市で4つの金賞を受賞。1926年、60歳になったベルジェ氏は引退し、ベルジェ社はファイオ氏へと渡りました。芸術性に富んだランプの時代へと幕が開かれ、優秀なクリエイターたちの仕事や、宣伝活動、海外への輸出なども拡大されていきます。これに伴い販売数も増え、パリの店は小さすぎるほどになり、1929年パリの西郊外クルヴォワの鉄道沿いに移転。1975年までベルジェ社はここで事業をし、現在はパリの本社として残されています。
1927年の店舗移転の頃には、発展を遂げる為の条件が全て揃い、その後の繁栄が確実なものになっていきました。1929年、ニューヨーク株式市場の大暴落で始まった世界恐慌の影響は、この頃はまだフランスには及ばず、好景気が続いていました。また、第一次世界大戦のいやな思い出も薄れつつあり、都会に住む人々は他愛のない楽しみや贅沢に夢中になった「狂気の時代」でもありました。この頃のランプ・ベルジェ製品の独自性と品質は、単なる利益追及などは差し置いて、美へのこだわりや品質の良さが注目すべき点で、インテリ階級の人々に喜ばれ、また質素な階級の人々にも広がっていきました。有能なクリエイターたちと提携することで、ランプ・ベルジェのイメージと名声は高まり、当時のフランスの女性作家ガブリエル・コレットやフランスの前衛芸術家ジャン・コクトーといった著名人からも愛用されました。当時二枚目の役者として人気が高かったジャン・マレは、自伝の中でジャン・コクトーが自分が吸った阿片の匂いを消すために、ランプ・ベルジェをつけるように頼んだ…と書いています。また、1938年にはパリ家庭用品博覧会で金メダルを授与されました。そして、芸術的に大きな発展をとげたこの黄金時代は、第二次世界大戦によって終焉へと向かっていったのです。
世界恐慌が一足遅れてフランス国家を揺さぶる時代になり、ベルジェ社もその余波を被ってました。そんな状態の時に、第二次世界大戦が勃発(1939)。戦争の影響により 1940年には、アルコール消費について増税が決まり、ランプベルジェに使われるオゾアルコールもその対象となり、在庫を捌いたり、防虫用製品を売ることで生き残りを図っていくことに。同年10月、更に追い討ちをかけるように、パリでジャン・ジャックファイオがドイツ軍の車に敷かれ、数日後亡くなり、この悲劇の後、ファイオ氏の長男ジルベール(当時28歳)が、ベルジェ社の後継者として難しい経営にあたる事になりました。1943年には、生産量、在庫、従業員は減ってしまい、そんな中、またもや不幸な事件に見舞われ、パリ郊外クルヴォワの工場が、連合軍の爆撃で大きな損害を被ってしまったのです。ガラスは吹き飛び、レンガの壁はひどくぐらつく状態でした。1945年終戦後も、フランス再建の努力は、まずは基幹産業と住宅に向けられ、余計なものは後回しとなり、ベルジェランプはむしろ余計なものに属されてしまいました。そんな中、ベルジェ社は徐々に活動を再開。暗い時代の取引として、物々交換が1946年まで続いたそうです。
1950年になると、磁器製ランプは全て手書きのもので、ポール・ボキヨンとカミーユ・タローなどの質の高さはベルジェ社の再建に確実に貢献をしました。30年に渡る理想的な交渉相手ルイ・メニゴーは、ファイオ氏にカミーユ・タローとの関係を強化することを勧め、またブルターニュ地方のファイアンス製造所ルトールと、リモージュの磁器製造業社グモー・ラベスとの取引を勧めました。さらにシャルル・アーレンフェルトと、ベルナール・ジローも紹介し、これら納入業社大体において成功を収めました。ルイ・メニゴーは、更にファイオ氏の要求に合わせて新たな品を選んだり、さらには新しい商品の企画にまで携わり、1979年までこの取引は続きました。こうして陶磁器の製造業社たちは、1950年代のベルジェ社の発展に大きな成果を与えたのです。
1950年代の終わりになると、ランプの一部は手書きから転写画(デカルコマニー)とも呼ばれる着色石版術の傾向が強くなっていました。大衆雑誌を利用した宣伝活動活動の再開にともない、販売数も併せて向上してゆき、生産は手作りでは間に合わず、経済発展による人件費の高騰などの理由により、なおのこと機械科に向かう事になりました。また、この頃になるとベルジェ社の製品は、エアゾールや消臭スティックといった代替製品との競争に対抗するために、製造コストをこれらの製品に合わせなければなりませんでした。その為、ベルジェ社の表現したい「生活の楽しみ」を犠牲にし、1960年代には、形、モチーフが平凡になっていきました。更に 1970年代の初めからは、磁器のランプは殆ど転写画となり、ランプへの装飾にかける費用、時間も減り、以前ほど丁寧というわけにはいかず、華やかさに欠けるものが多くなりました。(花模様の転写画がほどこされた球形、又は円筒形ランプが支流に。モデル数は25種に減少しました。)
1970年代の初めまで、ジルベール・ファイオの経営方針により、ランプの製造は、形も装飾も伝統的なものが大勢を占めていました。ファイオ氏は、事業の発展も特に著しくはなかったが状態は優秀であったベルジェ社を、1973年9月ルーアンの事業家マルセル・オーヴレという「若い定年退職社」に譲渡する事に。新経営者オーヴレ氏は、出身地であるノルマンディ地方に生産拠点を置き、古臭いランプのイメージを変え、発展をさせていくことを願い再スタートをきりました。前任者の経営方針を引き継ぎ、殆どの種類の既存商品を残しながら、「伝統的」なものと「コンテンポラリー(現代的)」なものの二つの傾向に分け、顧客の好みを分ける方針をとりました、とはいえ、この時代のランプの特徴は、形と色が簡素になり、新製品は見栄えのしないものばかりであるこの状態は、芸術顧問に要因があるのではと提議されはじめました。この時期ちょうど、フィリップ・オーヴレ(マルセイの息子)は、工業デザイナーとして名前が知られていたピエール・カズノヴと知り合い、ランプ・ベルジェを現代的なものとして進化させていく機会に恵まれたのです。
1975年「コンテンポラリー」製品の発売で部分的に失敗をしたオーヴレ氏は、ピエール・カズノヴ(工業デザイナー)の説得によりジャン・ジャック・ファイオの戦略を導入。芸術的側面は装飾家のカズノヴが一任され、現代的なモデルの考案や販売網の拡大など、戦略は少しずつ実行に移されました。これにより、現代的なランプの種類は年々豊富になり、また、その他の優秀なクリエイターたちも含めた新世代の装飾デザイナーたちは、ちょっと保守的になったこの社会に若さと素直さで新風を吹き込んでいくことになります。1796年、マルセル・オーヴレから彼の息子フィリップ・オーヴレに事業は継承されることになり、その後も独創性の高いコレクションや、1998年には、創業100年を祝いドーヴィルで盛大な式典を催すなど話題は豊富です。また、人々の意識を、室内消臭や芳香を「室内用香水」というコンセプトにまで高め、刷新しようとしています。そして2007年1月から新たな経営者フィリップ・レンツ氏により現在もそれは引き継がれています。
こうして、ベルジェ社は、次々と新たな経営者を迎え、更なる発展を目指し開発を進めてながらも、フランスの伝統的香り文化の一つとも捉えられるランプの老舗ブランドとして、確固とした地位を築いてきました。世論調査によれば、ランプベルジェは今日フランス女性の67%近くが知っているというほどの知名度を得ています。これは、フランスの製品と商標の中でもトップをいくランキングであり、ランプ・ベルジェが数世代にわたって人々の心に刻まれてきたことを示しています。ランプ・ベルジェはあるときは消毒のいち方法として、あるときは装飾品として、時には同時にその二つとして、あいまいな補完性の上にバランスを見出しながら、その価値観を認められてきました。実用タイプの飾り気のなさと、また昔ながらの顧客が重んじるランプの伝統に、アーティストたちの画期的で大胆な創造性が重ねられてきました。ひとつのコンセプトが技術的にほとんど変化せずに100年以上の寿命を保つことは、現代の産業世界では並外れた偉業といえます。当ページにお越しになられたお客様の一人一人がランプ・ベルジェ社の歴史と芸術の世界を少しでも感じて頂けることを願っております。