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ハイレゾなんて関係ない

ハイレゾマークと音質の関係

良い音の製品を探したとき、「ハイレゾ(マーク)」を目にされると思います。イヤホンでも「ハイレゾ対応」の製品があります。多くの場合、それは「CDに記録できない20kHz以上の帯域まで再生できる」という意味ですが、対象商品がイヤホンの場合20kHz以上の帯域が再生できるか、できないかは、人間にとってまったく意味を持ちません。20kHz以上の音は鼓膜ではなく、骨で聞いているからです。しかし、一方でハイレゾでは「CDに録音できない小さな音の変化」が収録できますから、イヤホンでもハイレゾで録音されたソフトの「音の良さ」は伝わります。けれどそれは、20kHz以上が再生できるかどうかとは無意味なので、従来から発売されている製品でもハイレゾは問題なく良い音で聞けるのです。
最近では、スピーカーやアンプ、その他の製品にも「良い音である証」のように「ハイレゾマーク」が使われています。けれど「ハイレゾ」は、すでに過去のものとなった「DVDオーディオ」と同じ音質ですし、「DSD」は「SACD」と同じ音質です。
何らかの新しいマークが付けられている製品を見ると「音が良い」と購入したくなります。けれど「名物に旨いものなし」という言葉があるように、「売るために付けられたマーク」は、製品の音質とほとんど関係がありません。「ハイレゾ」にかかわらず、あらゆる商品でメーカーが決めた「マーク」は、気にしないほうが広く、より良い製品が選べます。

原音忠実再生はオーディオのゴールではない

ハイレゾを推進するメーカーは、生演奏と同一の再現がオーディオのゴールという考え方を推奨しています。しかし、この考え方は明らかに間違っています。
「写真」はどれほど精密に撮影しても「現場をありのままに再現」することはできません。オーディオも同じで、どれだけ高音質に録音しても「原音」を忠実に再現することができません。
「記録」と「芸術」の違いを考えます。
「記録」とは、ありのままを変えずにそのまま残すことです。「芸術」とは、現実をよりわかりやすく、あるいは意味深く伝えるために必要な情報と、そうでない情報を人間が「取捨選択」することです。
生演奏は録音されるときに、レコーディングエンジニアの手で「取捨選択」が行われます。さらにそれを再生する時に「リスナー(あなた)」の手で、再び「取捨選択」が行われます。「取捨選択」により、現実が芸術に昇華するのであれば、原音を芸術的に正しく「取捨選択」することで、オーディオは「生演奏」よりも意味深く、高い芸術性を発揮することができます。

音質はただの「入れ物」にすぎない

音を「言語」だと考えてください。難しい言葉を使えば、より多くの言葉を使えば「文章の意味は深く」なるでしょうか?俳句は、可能な限り簡素で、少ない言葉で書かれていますが、それは意味深い芸術です。ハイレゾやDSDが誇る「音質」は、言葉と同じです。ハイレゾやDSDに比べて簡単な言葉しか持たない「CD」でも十分音楽の意味深さは伝わります。
良い音であふれた現代に「音の悪いSPレコード」が素晴らしいといわれるのは、ある種の「切り捨て(もしくは付け加え)」が、記録された演奏をより芸術的に輝かせるからです。私は、CDでも十分音楽を楽しんでいます。
「音質」は、ただの「入れ物」にしか過ぎません。より大切なのは、そこに「何を入れるか」です。

音が良くなれば、表現がより難しくなる

しかし、「音質の限界」がまた「伝達の限界」を決定していることも事実です。より複雑な音を発生するように楽器は進歩し、より複雑な音楽を表現するために「シンフォニー」が生まれました。しかし、楽器の数が増えれば増えるほど、楽団の構成が大きくなればなるほど、表現は難しさを増して行きます。 オーディオもこれと似ています。
音の「入れ物」は、大きければ大きいほど、より多くのことを伝えられますから、「ハイレゾでなければ伝えられない」は、決して間違いではありません。器が大きければ(音がより良ければ)、より意味深く音楽は伝えられるでしょう。 けれど器が大きくなれば、同時にエンジニアにはより繊細で注意深い「取捨選択」が求められます。それは、オーディオマニアにも、全く同じことが当てはまります。
あなたが聞きたいものが「音」ではなく、「音楽」であるならば、オーディオ機器の選択とセッティングには、より繊細な配慮が必要になります。音が良くなれば、単純に音楽がより意味深くなる。オーディオは、そんなに簡単なものではありません。

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