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素晴らしきカントリー・ミュージック
シールズ&シールズ 特別インタビュー

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 1970年代に活躍した2組の男性ポップ・デュオ、シールズ&クロフツ[Seals & Crofts]とイングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリー[England Dan & John Ford Coley]。前者のジム・シールズ[Jim Seals]と後者の(イングランド・)ダン・シールズ[(England) Dan Seals]が実の兄弟であることは、当時熱心にアメリカン・ポップスを聴いていた方ならご存知だろう。また弟のDanが83年以降、カントリー・アーティストとして大活躍したことも、ご存知の方は多いだろう。だがこの兄弟が現在活動を共にしていることをご存知の方はどのくらいいらっしゃるだろうか。

 僕がこのニュースを知ったのは、CMA(Country Music Association)の会報“Close Up”からだった。CMA主催で毎年6月に開催されるアーティストとファンの交流会、“Country Music Festival”(以前はFan Fairと呼ばれていた)の2004年度の出演者の中に彼らの名前があったのだ。それ以来各方面で調べてみると、彼らは新曲を共作中で、ワールド・ツアーにも出ていることが判明。それを知って居ても立ってもいられなくなった僕は早速彼らのツアーを見に行く計画を立てた。04年12月に香港で行われたコンサートには残念ながら行けず、05年8月6日のラスヴェガスに焦点を合わせることに。 会場はラスヴェガスの大通りから車で約10分ほど北にあるCannery Casino & HotelにあるThe Club。マネジャーのTony Gottlieb氏と事前に連絡を取り合い、約束の昼前に会場に到着。親切なGottlieb氏の取り計らいで控え室に通されると、やがてジーンズにシャツ、パーカーをはおりキャップをかぶったJimが現れる。僕とあまり変わらない、アメリカ人にしてはやや小柄でスリムな体型だ。握手し挨拶もそこそこに「今、日本語で“Summer Breeze”を練習しているんだ。こんな歌詞だけど、合ってるかな」と言っていきなり歌い出したのには驚いた。そして「Dannyが来るまでコーヒーでも飲んでいよう」とケータリング・コーナーで飲み物を勧めてくれた。そして雑談をしているうちに、ジーンズにシャツ、皮ジャンをはおり、やはりキャップ(「竹」というマークが付いていた。香港で購入したのだろう)をかぶった、写真で見るより遥かに大柄なDanが登場。いよいよインタヴューとなった。

__お二人ともお父さんのWaylonのカントリー・バンドで演奏活動を始めたんですよね。
Dan「僕はまだ小さかったのでほんの少しの間、4〜5歳の頃だった。小さなベースやフィドルを抱えてね。Jimmyはフィドル、父はギターを演奏した。父はソングライターで、カントリーのレコードも作った。またErnest TubbやBob Willsのバンドでも活動した。いつも新しい、プログレッシヴなことをやろうとしていた」
__Jim、Dash Croftsと出会った頃のことを教えていただけますか。
Jim「Dashとは10代の頃、テキサスで出会った。同じバンドで僕はサックス、彼はドラムを演奏した。別のグループでも活動したよ」
__そして全米No.1ヒット“Tequila”を放ったChampsに加入した訳ですね。
Jim「58年の夏に加入し、64年まで活動した」
__その後Mushrooms, Dawnbreakersといったバンドで活動し、DawnbreakersでLouie Sheltonと出会ったのですね。
Jim「そう、彼は後にSeals & Croftsのプロデューサーとなった」
__奥様に出会ったのもDawnbreakersでしたね。
Jim「カリフォルニアで、当時のマネジャーの家で出会った。彼女は女優で、2本の映画に出演していたが、昼間は病院で電話交換手の仕事もしていた。一緒に活動するようになって、やがてデートを重ね、結婚に至った」
__Baha'i教に入信したのもDawnbreakers時代ですね。
Jim「当時仏教、ヒンズー教、いろいろな宗教が広まっていた。そんな中で Baha'u'llahの教えはとても興味深かった。「すべての宗教は同じ神から派生している」「地球は一つの国家であり、人類はその住民である」というものだ。やがてDawnbreakersのメンバー全員がBaha'i教に入信した。
__69年にデュオSeals & Croftsを結成し、2枚のアルバムをTAレーベルから発表しました。
Jim「TAはニューヨークのBellレコードの傘下にあった。3枚目の時、WarnerがTA契約を買い取り、より大きな配給力を得た」
__そしてWarnerでの2作目が“Summer Breeze”[72年ポップ第7位/73年ポップ年間第2位/200万枚以上の出荷/邦題:想い出のサマー・ブリーズ]ですね。
Jim「幸運だったね。3枚のアルバムを作って、僕らの音楽がちょうど完成型にあった。僕らは元々シンガー・ソングライターだったが、この間に違うやり方で曲作りをし、いろいろ学ぶ機会を持てた。そして4作目で大きな人気を得られた」
__昨年“Summer Breeze”[72年ポップ第6位/イージー・リスニング第4位/邦題:想い出のサマー・ブリーズ]がGAPのCMに使用され、アダルト・コンテンポラリー(AC)局で再びオン・エア[04年AC第15位]されましたね。
Jim「あれはヒップ・ホップ・ヴァージョンだ。Warnerが我々にリミックスの許可を求めて来たんだ。また多くの人に興味を持ってもらえて嬉しいよ」
__73年、第5作の“Diamond Girl”[73年ポップ第4位/73年ポップ年間第23位/50万枚以上の出荷/邦題:僕のダイアモンド・ガール]も大ヒットしましたね。
Jim「当時は長いツアーにも出ていた。一度成功すると人々は次を求めて来るものさ。だからシングル(表題曲[73年ポップ第6位/イージー・リスニング第4位/邦題:僕のダイアモンド・ガール]、“We May Never Pass This Way (Again)”[73年ポップ第21位/イージー・リスニング第2位/邦題:この道は一度だけ])も大きなエアプレイを得られた」
__次作の“Unborn Child”[74年ポップ第14位]は、表題曲[74年ポップ第66位]が大きな論争を生みましたが。
Jim「あの曲は誤解されている。確かに政治的にも大きな論議の的となった。あれほどまで、ネガティヴに注目されることは予想していなかった。あれは父親や母親にではなく、子供に向けた歌だったんだ。当時子供に対する歌は誰も作らなかったからね」
__“Unborn Child”にはお二人の共作曲“Windflowers”[邦題:アネモネの誘惑]が収められていますね。
Dan「もっと若い頃にもいくつか共作したけど、録音しなかった。出来も悪かったしね(笑)。“Windflowers”はJimに助けを求められて書いた。アジア地域で大ヒットしたんだ。昨年12月に香港、今年2月にマレーシアでコンサートを開いた時にも、この曲は受けが良かった」
(筆者注:96年にワーナーミュージック・ジャパンより日本発売されたコンピレイションCD『Always〜君に想いを』にこの曲が収録されていた。残念ながら現在は入手困難)
__さらにヒットが続きましたが、76年の“Get Closer”[76年ポップ第37位/50万枚以上の出荷/邦題:ふたりのメロディ]からは表題曲が再びトップ10入り[76年ポップ第6位/イージー・リスニング第2位/邦題:ふたりのメロディ]を果たしましたね。
Jim「“Get Closer”は僕らにとって最大のヒットとなった。それまで僕らの曲をオン・エアしたことのない局もかけてくれた。R&Bフィーリングがあったからだろうね」
__“Get Closer”にはCarolyn Willis(元Honey Cone, Bob B.Soxx & The Blue Jeans, Girlfriends)がゲスト・ヴォーカルで参加していますね。
Jim「彼女は当時スタジオ・ワークをやっていた。ソロ・シンガーとしてツアーをやりたくなかったからだ。他の二人の女性と共にハーモニーをやってくれた。とても早く覚えてくれたよ」
__77年に映画“One On One”のサウンドトラック[77年ポップ第118位]を手がけましたが。
Jim「Charles Foxがオーケストラを制作し、Paul Williamsが歌を書いたんだ。シングルとなった“My Fair Share”[77年ポップ第28位/イージー・リスニング第11位/邦題:愛のかけひき]もそうだ。あまり他人の曲はやったことがなかったけど、これは映画の曲だし、とにかく習って、作者の意図するように歌うことを考えた。ちょうどレコードがない時期だったから、ギフトのようだったよ」
Dan「あれは素晴らしいアレンジメントだったね」
__78年の“Takin’ It Easy”[78年ポップ第78位]からのシングル“You’re The Love”[78年ポップ第18位/イージー・リスニング第2位/邦題:君は僕のたからもの]が実はあまり好きでない、という記事を見かけたのですが。
Jim「いや、そんなことはないよ。これはDavid Batteau__いいライターだ__と僕らのプロデューサーでもあるLouie Sheltonが共作した曲だ。ちょうどディスコ・ビートを感じさせる曲を探していて、巡りあった。自分ではそういう曲は書けないからね。ダンス・ビートは好きだよ」
__80年にアルバム“Longest Road”を発表後、音楽活動を停止しました。
Jim「曲が尽きたんだ。僕らのファンは常に同じような曲を求めて来て、だんだんと意欲が失われて行った。初めの頃のように新しいことをやりたくとも、それが許されない状況に追い込まれてしまった」
__昨年、Seals & Croftsとしての新作“Traces”を発表しましたね。
Jim「Warnerが誰かに買収されるという話を聞いたんだ。彼らは僕らのマスター音源を所有している。一方で僕らは出版権を所有している。曲がどうにかされる前に、そして僕らがまだ生きてる間に(笑)、もう一度シングルをやり直してみようと思った。プロジェクトの最中「新曲を入れたら?」とプロデューサーに提案された。気に入ってないし、大して数がない、と答えたが、彼は聞いて気に入って、4曲ほど収録した。アルバムは、今のところ気に入った人がいるとは思えないなあ。皆オリジナルを愛しているからね。でもスタジオで生で収録するのは、オーガニックな感覚だ。Dashと僕は最初のアルバムを作った時の気分を楽しんだよ。新しいことをやるのは、何ものにも代え難いね」
__アルバムには娘さんも参加していますね。
Jim「Lua Crofts, Juliet Sealsが参加してくれた。子供たちと一緒にプレイできることは嬉しいね」
__Seals & Croftsは基本的にはソフト・ロックに分類されていますが、カントリー、ジャズ、R&Bもブレンドされたヴァーサタイルな音楽性を持っていると思います。 Jim「カントリー、ジャズ、ブルーズ、ラテン、いろいろやって育って来たからね。Dannyも同じさ。一番いいのはとにかくプレイしてみること。学ぶのもいいけど、やってみなくちゃわからないからね」

__Dan、JimがChampsのメンバーとしてTV出演しているのを見てプロになる決意をしたというのは本当ですか。
Dan「本当さ。僕は兄を心から尊敬している。サックス、ギター、すべて兄の真似をした。彼は若くして自分の道を見出していた。いろいろなグループに加入し、町を出て演奏活動した。兄は僕にとって良き指導者だった」
__John Colleyと出会った頃のことを教えていただけますか。
Dan「64年だったかな、小さなバンドで活動していたんだけど、ギタリストがやめたため、オーディションで新メンバーを募ることになった。応募者の中でJohnだけがキーボードも演奏できたため、彼に決めた」
__その後Playboys Five, Theze Fewといったバンドで活動中に、Shane Keisterに出会ったのですね。
Dan「Boyd Williamsがベース、そしてShaneがキーボード奏者として加入し、この時バンド名をSouthwest F.O.B.と改名した。68年のことだったかな。僕はサックスを二つ持っていた。音楽の流れは変わりつつあった。アルバム・オリエンテッド・ラジオはJimi HendrixやCreamをかけていた。Johnと僕はSimon & GarfunkelやBeach Boysのようなハーモニーを重視するアーティストが好きだった。ちょうどJames Taylorも出て来た頃だった。そこで僕はサックスを諦め、Johnはキーボードを諦め、JimやDashと同じように生ギター2本で、僕らのバンドの前座をやった。観客の反応を見つつ、曲作りを始めた。これはいけるかもしれない、やってみようと思い、69年にバンドを脱退した。楽しい時期だったよ」
__初めはColley & Waylandと名乗っていたそうですが。
Dan「名前には苦労した。Seals & Croftsは既に東海岸では有名で、一晩に4,000人も集めていた。ヒット曲はまだなかったけど、レコードは出していた。だからSeals & Colleyにはできない、混同するからね。そしてカリフォルニアに行った時Jimmyが提案した。『お前はカウボーイだったから、特別な芸名をつけたら__そう、England Danなんてどうだ』 ワォ、そりゃいいや。England Dan & John Ford Coley__みんな気に入ってくれた。実際Jimと兄弟であることに気づかない人の方が多かった。76年にSeals & Crofts(“Get Closer”)と一緒(筆者注:正確には1976年8月21/28日付)にBillboardのトップ10に入った時(“I'd Really Love To See You Tonight”)、Casey Kasemが『史上初めて兄弟が別々のグループで全米トップ10入りを果たしました』とアナウンスした。そこで初めて僕らが兄弟だと気づいた人が多かった。長い間2本の生ギターでツアーした。前座としてYoungbloodsや Bread__彼らとは1年半ほど一緒に回った__ Elton John, Chicago…。当時レコード契約とブッキング・エイジェンシーがあれば、大物とツアーさせてもらえた。とてもいい経験だったよ。また、“I'd Really Love To See You Tonight”がヒットした時、僕らを覚えていてくれた人がたくさんいた」
__なぜJohnにはFordというミドル・ネームをつけたのですか。
Dan「Johnの本名はJohn Edward Colley。EdwardよりFordの方がクールだと思ったからだよ。それもJimmyのアイディアさ」
Jim「Butch Cassidy & the Sundance Kid(映画『明日に向かって撃て!』の原題及び主役二人の役名)みたいだろ(笑)」
__A & Mレコードと70年に契約し、2枚のアルバム__セルフ・タイトル盤と“Fables”__を発表しました。そして2枚目からシングル“Simone”[邦題:シーモンの涙]が日本で大ヒットしましたね。
Dan「僕らはまだ成功に対する心の準備ができていなかった。『日本で大ヒットしているから来てくれ』と言われて行った時、飛行機から見たソニー・ビルか何か高い建物に大きな垂れ幕があって“Welcome to Japan, England Dan & John Ford Coley!”と書いてあった。そして空港では何百人もの人々が僕らを待っていた。全く初めての経験だったね。72年か73年の初めだったかな。Three Dog Nightの前座として武道館や名古屋、京都、大阪等で5回のコンサートを行った。素晴らしいツアーだったね。『僕らは成功したぞ!』って気分だった。でも帰国すれば仕事はあまりなく、クラブでの演奏が続いた。日本に住みたいくらいだったよ(笑)。アルバムは発売されたし、ツアーもできたけれど、ラジオでのエアプレイはなかった」
Jim「オーストラリアのMen At Workと似ているかな。彼らも欧米では大活躍したけど、本国ではあまりヒットしなかった」
__そして“I'd Really Love To See You Tonight”のデモ録音がLouie Sheltonのプロデュースで行われ、Big Treeレコードとの契約につながった訳ですね。
Dan「Louie SheltonはSeals & Croftsのプロデューサーであり、僕らのA & M時代のプロデューサーでもあった。彼は『君たちのサウンドが好きだ』と言ってA & Mと交渉し、Herb Alpertに『プロデュースしたい』と申し出た。Herbはデモ・テープを聞いて『よし、契約しよう』と言った。2枚アルバムを作り、3作目が3分の1ほど出来た頃、何も起こらないことを見越した僕らは契約解除を申し出た。数ヶ月後、Louie, Jimmyのプロデュースでサンフェルナンドのスタジオで“I'd Really Love To See You Tonight”を録音した。Big Treeと契約成立後、Kyle Lehningと作者のParker McGeeがカリフォルニアに来た。Kyle がプロデュースを申し出、Parker作の“I'd Really Love To See You Tonight”[76年ポップ第2位/イージー・リスニングNo.1/邦題:秋風の恋]と“Nights Are Forever Without You”[76年ポップ第10位/イージー・リスニング第6位/邦題:眠れぬ夜]を録音するため、僕らはナッシュヴィルへ行った。エキサイティングな時だったね。不成功を重ねた末に、新しい街で新しいプロデューサー、自作ではない新しい曲、すべてが新鮮だった。そしてその結果、シングル、アルバム(“Nights Are Forever”[76年ポップ第17位/邦題:秋風の恋])共に初の全米大ヒットが生まれた」
__A & Mではほとんどが自作曲でしたが、Big Treeで他人の曲を取り上げることに抵抗はありませんでしたか。
Dan「A & Mではヒットは生まれなかった。つまり人々は僕らのライティング・スタイルを気に入ってくれなかったことになる。A & M時代にもKerry ChaterとRoger Karshnerの共作曲を取り上げたことはあったけれど。“I'd Really Love To See You Tonight”を聞いて『素晴らしい曲だ、僕が書きたかった』と思った。Seals & Croftsは自作曲で成功したけど、僕らは他人の曲を探して成功をつかんだ。もちろんアルバムには自作曲を入れたけどね。Parker McGeeはじめナッシュヴィルの優秀なライターのおかげさ」
__Big Treeでの2作目“Dowdy Ferry Road”[77年ポップ第80位/邦題:ふたりのフェリー・ロード]は個人的にあなたたちの最高傑作と思っています。
Dan「ありがとう。あの表題曲はダラス南東部のゴミ集積場から名前を取ったんだ。そこでは人々が歌いながら楽しげにゴミを回収していた。なんてワイルドな連中だ、ここが気に入った。そしてアルバム・タイトルにもなった。あのアルバムからのシングルは何だっけ」
__Randy Goodrum作の“It's Sad To Belong”[77年ポップ第21位/イージー・リスニングNo.1/邦題:悲しみのかなたに]です。彼のライターとしてのキャリアを手助けしたことになりますね。
Dan「彼にとって初のヒットだったからね。その後Michael Johnsonに“Bluer Than Blue”[78年ポップ第12位/イージー・リスニングNo.1/邦題:哀しみの序章]を提供した」
__Anne Murrayにも“You Needed Me”[78年第4位/ポップNo.1/イージー・リスニング第3位/邦題:辛い別れ]を提供しました。
Dan「そうそう、“You Needed Me”。彼はいいライターだよ」
__次のシングルはJohn作の“Gone Too Far”[77年ポップ第23位/イージー・リスニング第8位/邦題:青春の日々]でしたね。
Dan「Johnがハワイで書いた曲だ。ホノルルのクラブで1ヶ月ほど巡業した時に作った。もう1曲“Westward Wind”[78年イージー・リスニング第31位/邦題:そよ風は西へ]もこの頃に共作した。“Gone Too Far”の最高位は20位台だっけ? 初めて僕らのどちらかが書いた曲が注目された」
__この曲が中ヒットに終わったことで、レコード会社は次作でより多くの外部のライター作品を取り上げるよう指示した、と聞きましたが。
Dan「僕ら二人とも、Johnは特にそうだったけど、人々に気に入ってもらえる曲を書けると思っていた。Johnは“Gone Too Far”がその曲だと思っていた。僕はシングルにはどうかな、と思っていたけど。でも結局次作で外部の優秀なライターの曲を探し出した。次のシングルは“Love Is The Answer”だっけ?」
__いえ、“We'll Never Have To Say Goodbye Again”[78年ポップ第9位/イージー・リスニングNo.1/邦題:愛の旅立ち]です、Jeffrey Comanor作の。
Dan「そうそう、それだ。そしてより大きなヒットになった。当時外部のライターの曲の方が、自作曲よりも僕らのサウンドにフィットしていた。だからそれを続けた。また、Jeffrey Comanorや他のナッシュヴィルのライターと共作もした。すべては良い曲を作るためさ。良いライターになること、ライターとしてメインストリームとなることは難しい。ちょっとしたカントリー・ソングを作ることはできても…。Atlantic(Big Treeの配給元)は僕らにカントリー・ソングを望まなかったしね」
Jim「良い曲が必ずしも大衆受けするとは限らない。ある曲は誰もが気に入る、シングル・レコードとしての要素を持ち、一方では少しアーティスティック過ぎたりする曲がある。レコード会社は常にヒットが欲しいから『それはアルバムにはいいけど、シングルとしては受け入れられないよ』と言う。そんな、埋もれた名曲がいっぱいある。中には他のアーティストが取り上げてヒットさせ、陽の目を浴びる曲もある」
__アルバム“Some Things Don’t Come Easy”[78年ポップ第61位/邦題:愛の旅立ち]からのセカンド・シングル“You Can’t Dance”[78年ポップ第49位]はそれまでのシングルと違う毛色の曲でしたね。
Dan「ツアーに出てるとよりラウドでアップテンポな曲を演りたくなる。『こんな曲もできるんだぞ!』ってね。僕らは常にソフトでスウィートな面ばかりがもてはやされたからね。あれもナッシュヴィルのライター(Tim Ryan, Bob Yeomans)の曲さ。でもあれがうまく行かなくなるきっかけとなった。結果も伴わなかったし、本当に演りたいタイプの曲じゃなかったんだ。次のシングルは“Love Is The Answer”[79年ポップ第10位/アダルト・コンテンポラリーNo.1/邦題:愛こそ証]だよね?」
__そうです、Todd Rundgren作の。
Dan「そう、Todd Rundgren。あの曲は本当に素晴らしいね。いい時も悪い時もある。たとえ外部ライターの曲を選んでも、ね。Anne Murrayが僕らのアルバムの曲を取り上げて、シングル・ヒットさせた。君ならどの曲かわかるよね、僕は曲名忘れちゃったけど」
__“Broken Hearted Me”[79年No.1 /ポップ第12位/アダルト・コンテンポラリーNo.1/邦題:愛の残り火(ED & JFC盤の邦題:君はいまもこの胸に)/Randy Goodrum作]ですね。
Dan「そう、それだよ。Anneのレコード会社のスタッフが聞いて『これはヒットする!』って言ったんだ。あの頃は僕らにとってちょうど転換期だった。“Love Is The Answer”の後で、曲・レコード会社・マネジメント、すべてにおいて行き違いが生じた。“Love Is The Answer”が5月にヒットし、ラスト・ツアーを9〜11月に行い(筆者注:来日したのはその前年のツアー)、そして解散を決めた。僕らの間に大きな隔たりができていたんだ」
__アルバム“Dr. Heckle & Mr. Jive”[79年ポップ第106位]はそれまでのナッシュヴィルではなく、ロサンジェルスで録音しましたね。
Dan「もう一度新鮮な感覚を取り戻そうとしたんだ。いい経験だったね、違うミュージシャンと共演し、友人もできた」
__“Love Is The Answer”と次のシングル“What Can I Do With This Broken Heart”[79年ポップ第50位/アダルト・コンテンポラリー第12位/邦題:涙の面影]との間が半年近く開きましたが、何か理由があったのでしょうか。
Dan「僕にもわからない。レコード会社の考えだからね。混乱した時期だったけど、Johnと僕にとってはいい時期でもあった。お互いビジネスについて見つめ直す機会となったからね。そして僕はナッシュヴィルへ行き、馴染みのライターと共作を始めた。曲作りについても学んだ。カントリーを書き始めたのもこの頃だ。クリエイティヴな人たちとの仕事を楽しんだ。デュオとしての契約終了後、ソロでポップ・アルバム“Stones”[80年]、“Harbinger”[82年/邦題:ひとりぼっちの部屋]を作ったけれど、2枚目の途中でプロデューサーのKyleに『もういやだ、僕はやめる!』と宣言した。彼は『Danny、もし演りたいものがはっきりとしたら、電話してくれ』と言った。数ヶ月後、電話して『今カントリー・ソングをRafe VanHoyたちと書いている。カントリー・アルバムを作りたい、それが僕の心が落ち着く場所だから。もっとアコースティックな、Johnと二人で70年代に始めた時のような音楽を演りたい』と話した。とてもエキサイティングな時期だった。ライターとして目覚めたんだ。まるで歌詞とメロディが溢れ出るように、次々と曲が生まれた」
Jim「自作曲で成功しないと、自分が完成した気にならないものさ。自作が受け入れられると、歌い方はじめすべてに影響が出て来る」
Dan「Jimmyはエンターテイナーというよりアーティストだからね。エンターテイナーは良い仕事をして、観客が喜んでくれればそれで満足できるけど、アーティストは自作曲で勝負、いわば魂の叫びを伝え、それが受け入れられればこんないいことはない」

__83年に初めてDan Sealsの名をカントリー・チャートで見つけた時(“Everybody’s Dream Girl”[83年第18位])は驚き、感激しました。「また会えた!」って(笑)。
Dan「“England”の名はもう使わないことにした。自身に忠実であるためにね。人々は受け入れてくれた、違うことをやっていると。もちろんEngland Dan時代の曲はステージで歌った、フィットするからね。Buck Owensが“Nights Are Forever Without You”をカヴァーしてトップ10入りさせたし(筆者注:Billboardでの最高位は第27位[78年])、“I’d Really Love To See You Tonight”(筆者注:Jacky Ward & Reba McEntireが“Three Sheets in The Wind”[78年第20位]の両A面シングルとしてランクさせた)もいくつかのカントリー局でかかっていた。それらがすべて僕のステージに溶け込んでいた。そして第4弾シングル“God Must Be A Cowboy”が初めてトップ10入りし[84年第10位]、今度はプレッシャーがかかった。それまではレコード会社は『君の曲はシングル向きじゃないから』と言ってたのに、“God Must Be A Cowboy”への問い合わせが増えて、シングル発売するとすぐに50,000枚売れた。するとレコード会社は『ふ〜む、みんな君の書いた曲が聞きたいようだ』『もっと曲を書いてくれ』と言って来た。とても勇気づけられたけど、プレッシャーにもなった。ナッシュヴィルの優秀なライター、たとえばBob McDillと組み、アイディアを出し合って、いろいろと学んだ」
Jim「Dannyは素晴らしいソングライターだ。いろいろな経験が作品に生かされている。そして彼はファミリーの中でも最高の声の持ち主だ」
__Bob McDillと共作した“My Baby’s Got Good Timing”[84年第2位]を初めて聞いた時『これはNo.1になる!』と思いました。残念ながら2位止まりでしたけど。
Dan「あれはBobと最初に共作した曲だ。彼は『曲作りには方法がある』と言った。どうするんだい?と聞くと『軽いメロディ、フックラインを作ったら、ヴァースはもっとヘヴィに、深みを持たせるんだ。歌詞まで軽かったら、誰も気に入ってくれないからね。心の琴線に触れるようにするんだ』。僕は驚いた。そうして出来上がった曲は、自作であそこまでチャートを上がった初の曲になった。あの曲のアイディアはStefanie Powers主演のTVドラマ“Hart To Hart”[79年/邦題:探偵ハート&ハート]から取った。彼女が演じるミステリー作家が、夫と共に事件を解決するといった内容だったけど、そこで彼女はいつもタイミングよく行動するんだ。例えば夫が『コーヒーを飲みたいなあ』と言ったらそばでコーヒーを持って立っている、とかね」
__85年にMarie Osmondと共演した“Meet Me In Montana”がカントリー初のNo.1ヒットとなりましたね。
Dan「MarieはCurb/Capitolに、僕はLiberty/EMI America/Capitolに、いずれにせよ同じ系列レーベルにいた。ある日レコード会社の副社長が電話して来て『デュエットをやる気はないか』と言った。誰と?と聞くと『Marie Osmond だ。曲は後で送るよ』。初めはあまり嬉しくなかった。だってデュエットは15年間もやっていたんだから(笑)。でも曲を聞いたら、やる気になった。作者のPaul Davisは前から知ってた、素晴らしいアーティストでありライターだ。やがてスケジュールを調整し僕のプロデューサー(Kyle Lehning)、彼女のプロデューサー(Paul Worley)、そして僕らのバンドと共にスタジオ入りし、数時間で録り終えた。その後しばらくして『二人それぞれのアルバムに入れるよ』と連絡が来たのでOKすると、『ファースト・シングルにする』っていうじゃないか。そしてNo.1になった! 彼女と一緒にツアーしなかったので、また彼女なしにこの曲を歌うのは難しいので、ステージでは演らないことに決めた。でもTVショウでは何度か一緒に歌った。他のアーティストとの共演は楽しいよ」
__ある意味で彼女を再びスポットライトに当てる手助けをしたことになりますね。
Dan「お互いにね。あの後、新たなオーディエンスがコンサートに来てくれるようになった。カウボーイ/カウガールじゃない、彼女のポップ・オーディエンスがね。面白いのは、新たな曲を発表する度に新たなオーディエンスが来るようになること。“Bop”が出た時は、子供たちやそのおじいちゃん、おばあちゃん、さらにダンス好きな人たちが来てくれるようになった。だからMarieは僕を助けてくれたし、僕も彼女を助けたのならいいと思っている」
__次のシングルは先ほどお話の出た、Paul Davis/Jennifer Kimball共作の“Bop”[86年No.1 /ポップ第42位/アダルト・コンテンポラリー第10位]でしたね。
Dan「“Bop”は映画のために押さえられていた曲だ。Kyleも僕も気に入り、結局映画には使われないことが決まって、飛びついた。だからアルバム“Won’t Be Blue Anymore”[86年No.1 /ポップ第59位/50万枚以上の出荷]の中で最後に録音された曲だ。当時カントリーはよりトラディショナルな方向へと進んでいた。Ricky SkaggsやRandy Travisが台頭し、ブルーグラスっぽいサウンドが流行っていた。そんな時にサックスやシンセサイザーが多用された曲はどうかな、と思った。もちろんサックスはMerle Haggardがよく使ってはいたけど…。でも心配には及ばず、No.1になり、ポップ・チャートにもクロスオーヴァーした。
__あの時は驚きました。
Dan「僕もだよ(笑)。『どうなってんだ?』ってね。とても素晴らしい曲で、僕のキャリアを決定づけてくれた」
__次のシングルは、あなたの自作曲中ベストの1曲“Everything That Glitters (Is Not Gold)”[86年No.1]ですね。
Dan「あれもBob McDillとの共作だ。“Bop”に相当するような曲はもう持ち合わせていなかった。Paul Davisも同じようなアップテンポ・ナンバーは持っていなかった。その時レコード会社が『全く違うタイプの曲を出そう。みんなも君の書いた曲を気に入っているしね』と言い出し、シングルになった。新しい曲を書くたびに『これは気に入られないよ』と思うけど(笑)、あの曲は僕の自作曲の中でも間違いなくフェイヴァリット・ソングだ」
__“Meet Me In Montana”に始まり、9曲が連続でBillboardのNo.1となりましたね。
Dan「素晴らしいことだね。マネジャーやプロデューサー、レコード会社との連携がすべてうまくいった結果だ。驚きだよ、全く予想もできないことだからね。“Won’t Be Blue Anymore”がゴールド・アルバム(50万枚以上の出荷認定)となった時、ナッシュヴィルのとあるホテルで記念パーティが開かれたのだけれど、そこでこんな笑い話があった。レコード会社は当初Jim Sealsと契約したつもりでいたって言うんだ。Libertyの宣伝担当はラジオ局に『Seals & CroftsのJim Sealsと契約したぞ!』と連絡し、後で間違いに気づき慌てて電話をかけ直したそうだ(笑)。もう一つ、最初の大ヒット“God Must Be A Cowboy”がアルバム・タイトル[“Rebel Heart”/83年第40位]と合致しなかったように、『こんなに“Bop”がヒットするのなら、アルバム・タイトルを“Bop”にするんだった!』ってね。そんな失敗談を笑い合った。そしてゴールド・アルバムと共に記念撮影をした。レコード会社もファミリーのように温かな人たちばかりだった。大ヒットが途絶えた時__最後のNo.1は“Good Times”[90年/オリジナルはSam Cooke、64年ポップ第11位]」だったよね?__Universal社長だったJimmy BowenがCapitolに乗り込んで来て、スタッフの人事を一新してしまった。行き場がなくなった僕はWarner Bros.と契約した。WarnerにはRandy TravisをプロデュースしていたKyleがいたし、JimmyとDashもかつてWarnerにいたから、良い移籍だろうと思った。でも結局Warnerではヒットが出ず、2枚アルバムを発表後契約解除を申し出た。そして、よりアコースティックな音楽に着手した。マネジャーのTonyも『自分でプロデュースしてみたら? 今がチャンスだよ、レーベルからの圧力もないし、自由にやれるよ』と言ってくれた。そして2枚のアコースティック・アルバム“In A Quiet Room”[95年]、“In A Quiet Room II”[98年]を作った。ルーツ回帰ともいえる作品だったね」
__日本ではカントリーは人気がなく、“Walking The Wire”[91年]を除いてあなたのカントリー・アルバムは1枚も発売されませんでした。
Dan「人も時代も移り変わる。それは日本でも同じことだろう。音楽業界も新しい人々がやって来て、新しいビジネスを始める。ヒットが途絶えてしばらく経つと、次のチャンスをつかむのはなかなか難しい。計画的に、いつ成功するか、なんてわからないからね。“Simone”は確かに日本で大ヒットしたけど、他はそうでもなかった。人々の心の琴線に触れること、受け入れてもらえることは贈り物のようなもの。秘訣などないのさ」

__現在お二人は世界ツアーの傍ら、曲を共作し、そしてアルバム制作の準備に入っているとお聞きしましたが。
Dan「JimmyがSeals & Croftsとしての活動からリタイアすると決めた時、彼にGrand Ole Opryでの共演を依頼した。二人とも幼い頃Grand Ole Opryでのライヴをラジオで聞いて育ったんだ。そしてステージで“Summer Breeze”や“Diamond Girl”を演ったら、観客は皆立ち上がって熱狂した。Grand Ole Opryではそんな光景はめったにお目にかかれない。その後共作を始め、新しいマシンで録音し始めた。時には誤って消してしまうこともあるけど(笑)、やり直したりして、これまでに22〜23曲作った。そしてプロジェクトを立ち上げ、バンドを組んでリハーサルをし、ミシシッピからツアーを始め…どんどん発展していった。8曲ほど既に完成しているけど、CDはどのようなものになるか、まだ手探り状態だ。気に入ってくれる人がいるかどうかわからないけど、JimmyとDash、僕とJohn、そして僕のソロとも異なる、全く新しい音楽になると思う。現在もコンサートの3分の1は新曲だ。残りはみんなが期待する曲、“Summer Breeze”や“Diamond Girl”、“I’d Really Love To See You Tonight”や“Love Is The Answer”、そしてアルバム・カット、それらを組み合わせて構成している。Jimmyと初めて一緒に演れて、本当に楽しいよ。Jimmyの二人の息子も協力してくれている。息子っていってももう30代だけどね(笑)。バンドにもいるし、アルバム制作にも携わっている。ツアーも香港、マレーシア、ナッシュヴィル、様々なところを回っている。ヴェガスもソロでは何度かあるけど、もちろん一緒では初めてさ」
Jim「まだ行ったことのない国がいっぱいある。ブラジル、アルゼンチン…」
Dan「日本だってないだろ」
Jim「そう日本。いろいろな国に行って、人々と交流したいね」
Dan「アジアの人たちは僕らのことを気に入ってくれている。それぞれ別々に成功した二人の兄弟が一緒に活動するっていうアイディアを喜んでくれている。中国やヴェトナムにも行ったし、ヨーロッパも予定に入っている」
__Seals Familyには才能ある音楽家が溢れていますね。お父さんはもちろんのこと、Chuck Seals(いとこ。Ray Priceに“Crazy Arms”を提供したソングライター)、Troy Seals(いとこ。シンガー・ソングライター。数々のカントリー・ヒットを書いたスーパー・ソングライター)、Johnny Duncan(いとこ。70年代に活躍したカントリー・シンガー)、そしてお兄さんのEddie Seals。
Jim「Eddieはラスヴェガスで25年間活動していた。71年にリタイアしたんだ」
Dan「小さな湖のそばで暮らしているよ。釣りを楽しんでいるようで『ヴェガスに来たらいつでも来いよ』と言ってくれる」
__数年前にBrady Seals(元Little Texas、現Hot Apple Pie)がソロ活動を開始した時に話をする機会があったのですが、Seals Familyの一員であることに誇りを持っている、またお二人のことを尊敬している、と言っていました。
Dan「僕らも彼を尊敬しているよ。とても才能あるミュージシャンだ。彼はTroyのsecond cousinにあたり、僕らはTroyのfifth cousinにあたる。Troyの曾祖父と僕らの曾祖父は兄弟なんだ。そしてTroyはオハイオで生まれ、僕らはテキサスで生まれ…。いつの日かSeals Familyの家系図を作りたいと思っているよ。Seals Familyが音楽の世界で活躍できて、本当に恵まれていると思う」
Jim「興味深いのは、みんなナッシュヴィル周辺に落ち着くってことだ」

 二人ともキャリアが長い上、一つの質問に数分間も続けて答えてくれるため、延べ1時間以上にも渡るインタヴューとなったが、嫌な顔ひとつせず、各質問に丁寧に答えてくれた。質問というより、彼らの軌跡の再確認がほとんどであったが、読んでいるだけでも二人の温かい人柄が伝わって来るのではないだろうか。Danにインタヴューしている間、Jimは同行していた マネジャーにコーヒーやクッキーを勧めてくれる等、気配りまでしてくれた。一方で音楽に対する真摯な姿勢は、第一線で活躍していた当時と全く変わることがない。僕は何よりもそれが嬉しかった。お土産に持参した「おかき」、そしてプレゼントした『全米TOP40研究読本』と日本盤CD“Stones”、『僕たちの洋楽ヒットVol.5』(“Simone”収録)、『僕たちの洋楽ヒットVol.9』(“My Fair Share”収録)をとても喜んでくれた二人。その後会場隣にあるBuffetで昼食をとっていると、リハーサルの音が聞こえて来て、思わずニッコリしてしまったのは言うまでもない。

 その夜のライヴの構成は、発言にもあったように3分の1は新曲で、残りはおなじみの曲。衣装は二人とも黒のシャツにパンツ、割と派手なジャケット。客層はやはり40〜50代の白人ばかり。2・3曲目の“I’d Really Love To See You Tonight”、“Summer Breeze”では思わず目頭が熱くなった。4曲目には全米ではシングル化されなかった二人の共作曲“Windflowers”も披露された。そして“They Rage On”[89年第5位]、“Big Wheels In The Moonlight”[89年No.1]、“Everything That Glitters (Is Not Gold)”とDanのカントリー・ヒットが続く。新曲にバンド・メンバー紹介と“Nights Are Forever Without You”を挟み、“Diamond Girl”、“Bop”で一旦幕となる。アンコールではDanがサックスを披露、そのまま“Good Times”に。そして“Get Closer”、“We May Never Pass This Way (Again)”、“Love Is The Answer”と続き、観客の興奮も最高潮に達する。最後はJimがフィドルを披露、大喝采のうちに閉幕となった。
 長い間ツアーから離れていたJimの声も予想以上によく出ており、ハーモニーも初めての共演とはとても思えないほど息が合っていた。さすがは兄弟である。現在制作中のアルバムの完成が楽しみだ。
 また、今回の会場となったCannery Casino & HotelのThe Clubには、他にもAmbrosia, War, Jeffrey Osborne/Peabo Bryson, Dwight Yoakam, Ronnie Milsapといったアーティストが出演している。



このコーナーは、「僕たちの洋楽ヒット」の曲解説や、カントリー番組の企画、解説など、さらに当店企画「CHARTBOMB PART2」で
おなじみの森井嘉浩氏のページです。毎年恒例のイベント、カントリー・ゴールドの模様などをご紹介しております。
カントリー・ミュージックを聴いてみたいという方には特にお薦めです。


森井 嘉浩(もりい よしひろ)
音楽ジャーナリスト。ビートルズで洋楽に目覚め、『全米トップ40』でヒット・ポップスの魅力にはまる。
その後米軍放送FEN(現AFN)はじめ数々のラジオ番組を聴きまくり、ジャンルを問わず1950年代以降のポップスの歴史を学ぶ。
学陽書房刊『全米TOP40研究読本』('93年)共著。DJ/音楽評論家=水野裕二氏に師事、氏亡き後その遺志を継ぎ洋楽全般、
特にカントリー・ミュージックの普及に邁進。元日本カントリーミュージック協会(JCMA)理事。


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