「国産第一号」
出典 : 「Chioce」(ゴルフダイジェスト社) 2002年11月号




 昭和30年代の高度成長以降、長い間、輸出主力商品として日本経済をささえてきたテレビ受信映像やVTRが、いつの間にか輸入品になってしまった。メーカー名こそ松下、東芝、NECと、馴染みの名前が入っているが、中身の大半は台湾製、中国製、マレーシア製などにとって変わったのである。
 
 製造業の海外移転と、国内産業の空洞化が懸念されて久しい。最近ではハイテク産業まで東南アジアに持って行かれ、産業構造の変化は、想像を絶するスピードで進んでいる。

 ゴルフクラブも例外ではない。ゴルフクラブの場合、原産地は組み立てた国になるため、正確な統計はないが、海外からパーツで輸入する割合が、かなり増えている そんな中、日本で初めてゴルフクラブを製造したという会社が、いまなお頑張っている。大阪府高槻市にある「森田ゴルフ」がそれである。国産クラブが誕生して以来、日本のクラブ業界は産業構造の変化の波をもろに受け、大きなうねりに翻弄されてきた。

 その最前線にあった森田ゴルフの歩みを通して、日本のクラブ産業がたどってきた70年
(現在は80年)を検証してみよう。

 月給50円の時代にアイアン9本は200円。
 それでも舶来の半額だった。

デザインの良さも森田ゴルフの"売り”だった。

昭和39年の社員旅行。高槻工場だけで、
これだけ従業員がいた。
  森田の創業者・森田清太郎が兵庫県姫路市で国産クラブの製造を始めたのは、昭和3年のことである。3代目の社長で、清太郎の孫に当たる森田泰史が言う。

 「クラブの製造を始める前は、何をしていたかはよくわかりませんが、戦時中、軍刀を作っていたそうですので、刀鍛冶だったんじゃないかと思われます。」

 姫路市周辺は、現在でも国産ゴルフクラブのシェアの約7割を占め、とりわけアイアンヘッドの製造では中小30前後の町工場が集まり、典型的な地場産業を形成している。その核となったのが森田ゴルフだった。

 とはいえ、昭和初期に日本にあったゴルフコースは20ヶ所余り。ゴルファーは外国人を含めて1万人程度と推測されていた。そんな小さな市場に清太郎はなぜ乗り出してみようと思ったのだろうか。


 前出・泰史にはこんな思い出がある。「祖父はすごくハイカラ趣味で、新しい物好きでした。いつもサファリハットをかぶり、柄に犬の顔がデザインされたステッキを持ち歩くのがやったんです。しかも、ステッキは仕込みになっていて、雨が降ると傘がパッと飛び出す特別あつらえ。よく自慢げに見せていましたよ。」

 ハイカラ趣味で新しいもの好き。清太郎にとってゴルフは。事業の成否を越えて興味そそる対象だったに違いない。
 話は前後するが、日本で初のゴルフコースが、六甲山頂に4ホ−ルでオープンしたのは明治34年である。これを契機に、その周辺にいくつかのゴルフ場が造成され始めた。

 やがて神戸市の隣・三木市でも廣野ゴルフ倶楽部の造成が計画される。三木市は播州平野の中央部に位置し、昔からも農機具や刃物を生産する鍛冶の町として有名で、町の中心には関西最大の三木金物工業試験所があった。

60度のサンドウェッジもすでに製作されていた。


 ある日、試験所にゴルフ場の関係者が訪れた。グリーン上にホールカップを切る道具と一緒に、アイアンヘッドの研究をしてほしいというのである。それまで家庭用金物の材料研究しかしたことがない研究員松岡文治は、初めて見るヘンな金具に首を傾けた。そして従兄弟の森田清太郎に相談した。これが森田清太郎がクラブを見た最初だった。

 クラブデザイナーで、関西ゴルフクラブ製造史に詳しい高木誠一は、その後の二人の苦労をこんな風に説明する。「当時の日本には、アイアンに関するデータがまったくなく、ロフト角やライ角、重さはどのくらいかなど、まるで見当がつかない。二人はみようみまねで作っては、プロゴルファーの草分けだった。宮本留吉や福井覚冶の許に持ち込んでアドバイスを受け、持ち込んではまた作り直して行くという試行錯誤を重ねたようです。そして2年余の歳月を経て、やっと試作品を作り上げたということでした。」

 高木によれば、当時の製造法は50センチ前後の鋼棒を火入れして大ヅチで叩き、平たく延ばしてフェースの角度を決めるやり方で、高度な刀鍛冶技術を持つ森田や、アイアンヘッドの研究を重ねた松岡をもってしても、満足のいく完成品は3個に1個程度と、並大抵の苦労ではなかったという。

 昭和5年の年末も押し迫った頃、清太郎は羽織,袴で正装し、手製のアイアンを大阪市東区にあった運動具メーカー・美津濃(現ミズノ)に持ち込んだ。それは清太郎が胸を張るにふさわしい出来ばえで、美津濃の担当者は即決で買い付け、ヒッコリーシャフトをつけて国産第1号のクラブが完成した。




<当時の研磨作業場>
実は写真中、中腰の姿勢で写っている方が、当社の軟鉄鍛造クラブの研磨をお願いしている
研磨職人の井内さんである。(先日お会いした時に偶然判明しました(^o^))

 再び、高木が言う。

 「美津濃に認められると、森田さんは直ちにゴルフクラブの一貫生産工場を姫路市に建設する。もともと財力があり、商機を掴む才覚もあった。製造方法も手作り鍛造ではなく、金型鍛造法を採用、月産300〜400セットにしていったということでした。」

 一方で当初、清太郎心配していた需要の方は、当時の舶来品と格段に安かったため、飛ぶように売れたようだ。

 前出・泰史がこんなエピソードを明かす。

 「いつの頃かわかりませんが、ウッドの職人が一日に2個作れば一人前といわれて、そのうちのクラブ1本の値段が、職人の月給相当分だったそうです。また三菱重工の工場長から注文を受け、クラブを一本持って急行列車で届けたという話もあります。汽車賃を支払っても。まだ利益がでたんでしょうね。」

 ちなみに高木の記憶では昭和9年における新卒サラリーマンの月給は50円。これに対して国産のウッドは1本26円、アイアンは9本のフルセットで200円。それでも輸入品の半分以下だったという。

 だが、やがて戦火の足音が近づき、ゴルフどころではなくなってきた。やむなく清太郎はクラブ製造を一時中断し、軍刀を作るようになる。そして終戦・・・・・。

 森田ゴルフが本格的なクラブメーカーとして大躍進を遂げたのは、戦後になってからのことである。



 最盛期は、国内製品の6割を生み出した

 戦時中は軍刀の製造、終戦直後は石鹸の製造で糊口をしのいでいた清太郎が、ゴルフクラブの製造を再開したのは、昭和25年に入ってからだった。この7月に朝鮮戦争が勃発。日本は特需景気に湧き返り、クラブ業界も一気に隆盛を迎えた。当時、メーカーの多くは、アッセンブリー中心の零細企業だったが、森田ゴルフはウッドからアイアンヘッドまで一貫生産体制をとり、ミズノと肩を並べる国内有数のクラブメーカーに成長したのだった。

 そして昭和32年、日本のゴルフ界にとって画期的な出来事が起こる。

 埼玉・霞ヶ関カンツリー倶楽部で開かれたカナダカップで、中村留吉と小野光一の日本チームが団体戦で優勝。中村は個人戦でも優勝し、これによって、日本にゴルフ愛好者が一気に膨れ上がった。降って湧いたような需要増に、森田ゴルフは増産に次ぐ増産で対応した。

 当然、恒常的な人手不足が続いた。そこに夜間高校に通う1人の少年が入ってきた。少年はしばらくパター製造部門に配置された。手先が器用で、複雑な形状のパターヘッドを磨く作業が巧みだったからである。後に、独立して「ヒロ・マツモト」のブランドで一躍有名になったパター作りの名人・松本の若い頃のひとコマである。

 また、やはり手作りクラブで知られる三浦技研の三浦勝弘も同じ時期に森田ゴルフで修行を積んだ。いま姫路市周辺にあるアイアンメーカーの大半は森田ゴルフ出身の職人が独立したものだと言われている。

 この頃になると、国産のアイアンヘッドは"姫路もの”と呼ばれるほど、姫路の鍛造アイアンは有名になった。その姫地ものの大半は森田ゴルフ製で、最盛期の森田ゴルフは国内製品の60%を生産していると噂された。従業員148名、オートメカされた近代的な工場ラインからはウッド、アイアンクラブが昼夜を分かたず流れていた。それだけ生産したのも、需要があったからである。

 「やはり祖父の話ですが、この頃、東京に段ボール箱で何箱かヘッドを運んで行き、定宿にしている旅館から何軒かの得意先に電話をかけると、相手のほうからタクシーで飛ばして集まってきて、奪い合うように持ち帰ったそうです。」(森田泰史)





 勢いに乗って森田ゴルフでは、新しい技術開発にも積極的に取り組む。

 もともと清太郎は研究熱心で、ウッドを生産するようになると、パーシモンに代わる材料を求めて、桜や椿などでもヘッドを作っている。そして実際に竹合板のウッドを商品化、また竹とスチールの比重の違いに着目、低重心のユーティリティアイアンに似たコンボジットクラブを開発するなど、新しいアイデアを次々に商品化した。泰史が続ける。「メーカーはアイデアと技術だ、といのが、いつも祖父の口癖でした」やがて清太郎の後を継いだ2代目社長の森田泰寛は、シャフトの開発にも乗り出す。当時、ウッドとアイアンは、本場アメリカから注文がくるほどの水準に達していたが、シャフトはプロフィットなどの輸入モノに頼っていた。

 泰寛は、これを約3年の歳月をかけて完成させた。森田ゴルフはシャフトからヘッドまで自社生産する、文字通りの総合一貫メーカーになったのである。

 昭和37年には、現在本社のある高槻市の工業団地に4000坪の土地を買って移転。ここで世界初のロストワックス製法によるアイアンヘッドの製造を開始する。その後も日本初のキャビティアイアンを売り出すなど、率先した技術革新と旺盛な開発力で、つねに国産クラブ市場をロードし続けたのだった。当時、森田ゴルフには「モリタ」という自社ブランドがあったが、それは全体の3割程度。残りは国内と海外メーカーのOEM生産だった。森田ゴルフのクラブは、アメリカやオーストラリアに輸出され、国内よりも世界で愛用されたのだった。

 ロストワックス製法で、高品質のアイアンヘッドを大量生産できる技術を確立した森田ゴルフには、その後も海外メーカーのOEM依頼が相次いだ。

 「昭和40年代の初めには、米国スポルディング社から月産2万個という大量注文があったそうです。

 当時のうちのキャパシティは月産5000個ですから、ウチだけでは到底無理。父は台湾の会社で鍛造してもらおうと、自ら技術指導に出かけていったのでした。」

 下請けが、さらに孫受けに発注するほどの盛況ぶり。森田ゴルフでは、姫路の工場を閉鎖し、高槻の鍛造工場に経営資源を集約して、さらなる飛躍を期した。

 ロストワックスアイアンは森田ゴルフの独占状態で価格的に高く売れ、しかも複雑なデザインでも容易に製造できることから、前途は洋々と開けていた。
だが、好事魔多し・・・。

 昭和48年10月、第4次中東戦争に端を発した第一次オイルショックが勃発、森田ゴルフは破壊的打撃をを受けた。
「この石油ショックで、輸出用ヘッドが全部、納入ストップになったんです。しかもロストワックス製で、全部、相手方ブランドが刻印してある。ほかに転用することもできずに大量在庫を抱え、下請けメーカーの悲哀を心底味わいましたね。」

 森田ゴルフは、これを機に経営を大幅に縮小。OEM事業をやめ、自社ブランドの「クラウナー」で再起を期したのだった。


 クラウナーブランドはどちらかと言うとパターで有名である。フェースバランス設計の「パーフェクトライン」や、インパクトの瞬間に澄んだ音色を出す「リアクション」といったモデルは愛用者が多かった。

 クラブについて言えば、ロングアイアンはブローニングタイプ、ミドルアイアンはスポルディングのセンチュリタイプ、ショートアイアンはリンクスタイプと、アマチュアゴルファーを意識した画期的なモデル「キャラクター」をご記憶の人も多いだろう。



竹の合板で出来ている7番ウッド

 また上級者用、中級者用、初心者用と、ターゲットを絞り込んだモデルをいち早く売り出したのもクラウナーブランドだった。

  販売店からは、「わざわざ買い手を狭めてしまう」と文句を言う店ももあったそうです。」

 ちなみに上級者用の「プロ2000」は、最高級パーシモンを使ったウッドが1本9万5000円で、アイアンは9本でセット54万円。フルセットだと80万円という高価格。逆に初心者用の「カプリ」ウッドは合板ヘッド、アイアンは軟鉄鍛造製で両方合わせて5万5000円と、性能だけでなく価格にも大差をつけたのが特徴だった。



1965年昭和40年の価格表では、1本4500円から1万2000円のアイアン、
1本6000円から1万7000円のパーシモンウッドが紹介されている。



 「クラウナーブランドになってからも、それなりに売れていました。但し、ここまでモデルチェンジサイクルが早くなると、クラウナーブランドは、流石に大手メーカーに太刀打ち出来なくなりました。」

 そう言いながら、3代目社長の森田泰史がいま取り組んでいるのが「口コミ直販」だというのだった。

 「口コミ直販システムを導入して今年で3年目ですが、現在会員数は2000名。口コミが一人歩きを始めた感じで、順調に推移しています。」

 亀は自分の甲羅にあわせて穴を掘るというが、その時代、時代にもっとも合う生き方をどうやって見つけ出すか。森田ゴルフが紆余曲折を経ながらも、なお頑張っている秘密は、その辺にありそうである。 

 参考資料「ゴルフ用品業界総覧」(ユニバーサルゴルフ社編)

 出典 (「Chioce」(ゴルフダイジェスト社) 2002年11月号)


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 設 立 昭和37年(1962年)9月1日
 創 業 昭和 3年(1928年)
 資本金 1800万円
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 事業内容 ゴルフクラブ製造
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大阪府高槻市南庄所町2-5
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