写真2011 旧薩摩街にて




牧 田川添(ぞ)ひ ひと筋に

行く行く敵を けちらして

駒野(こまの)峠の 夜にまぎれ

伊勢路さしてぞ おち給ふ(たもう)



無心の蔓草 (つるくさ) 今もなほ勇士

の血潮に 茂るらん

仰げば月色(げっ しょく) 

縹渺(ひょう びょう)と

う たた 往時(おうじ)の な つかしや


■妙円寺詣り
 
 関ヶ原で敵中突破を成した島津義弘公
 と関ヶ原に向かった薩摩隼人を偲び
 江戸幕府の目を忍ぶ形で
 
旧暦の関ヶ原合戦  前日、夜中
 
厳かに、粛々と薩摩全土より
 義弘公の 菩 提寺である、 妙円寺に詣った

(幕末〜明治維新以降 廃仏希釈により徳重神社に詣で、妙円寺復興後の現在も殆どの人間が徳重神社に詣る *妙円寺と徳重神社は別の場所です。)
*誤解の無い様に追記しておきます。

 のが、その起源であり、 明治維新後 
 公に行われるようになった。
 
 同時に関ヶ原に向かい敵中突破を、
 なした、義弘公 薩摩隼人の強靭 
 な精神と肉体を称え 山坂を歩き
 足腰を鍛える 郷中教育 
 【山坂達者】を 伝え残す

  
   【鹿児島三大行事】の
     一つとしても名高い、


  伝統行事である。
 
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  関が原の合戦がすぐわかる      妙円寺詣りの歌

1明くれど閉ざす 雲暗  く
薄(すすき)かるかや そよがせて
嵐はさっと 吹き渡り
万馬(ばんば)いななく 声高し

銃雷(つついかずち)ととどろけば
太刀稲妻と きらめきつ
天下分けの たたかひは
今や開けぬ 関ヶ原

石田しきりに 促せど更に動かぬ 
島津勢 占むる小池の 陣営に
鉄甲堅く よろうなり

名だたる敵の 井伊本多
霧にまぎれて 寄せ来るや
我が昌巌(しょうがん)ら 
待ち伏せて 縦横無尽に 
かけ散らす

薬丸自顕流 総師範と南州神社にて



  20Kmの道中 写真左の鹿児島学舎連合でもあり、鹿児島の歴史の
  語り部でもある先輩に、色々な話を聞きながら歩き、
  ここぞとばかり、その由来を聞いてみたところ、納得の行く答えを
  教えてくれましたので、この場に、そのまま記載しておきます。

  『チェスト〜』の由来
 
  
薩摩 大隈では島 津家 にのみ伝わった剣術【陰之流】の
  奇先(かけ声)が『チェ〜』と発生され、島津の殿様は
  将卒らに、
『チェ 〜っと行かんか!!』と檄を飛ばして
  いたとされ、これが
 『チェスト〜行け!!』
  
に変化したと考えられる、 恐らくそう言う事だろう
  と 教えてくれました。 

  納得。そして

  薩摩では、島津家のみ許された
【陰之流】の  奇先『チェ〜』
  を使う事を許された証とも取れる『チェ 〜っと行かんか!!』 
  
の檄は、薩摩隼人にとって非常に名誉ある言葉だったのだろうと
  と思う 山坂の道

■丁度中間地点 チェスト館にて ソバをすする。
  

家康いたく あらだちて
自ら雌雄を 決せんと
関東勢を 打ちこぞり
雲霞(うんか)の如く 攻めかかる


かかれ進めと 維新公(いしんこう)
耳をつんざく 雄叫び(おたけび)に
勇む隼人の
 切先(きっさき)の水もたまらぬ 
鋭さよ
十一
払えば又も よせ来たり
寄すれば又も 切りまくり
剛は鬼神(きじん)も 挫けども
我の寡勢(かぜい)を 如何にせん
十二
運命何れ 生か死か
ここを先途と 鞭ふるひ
奮迅敵の 中堅に
活路を求めて かけ込ます

           ■ようやく徳重神社(妙円寺)に無事到着
             義弘公と薩摩武士達に思いをはせ詣る。


十七
賜いし御旗 ふりかざし
阿多長寿院(あたちょうじゅいん) 
駆け入りて
兵庫入道 最後ぞと
名乗る雄々しき 老(おい)の果(はて)
十八
欺かれたる 悔しさに
息もつかず 忠吉(ただよし)ら
くつわ並べて 追ひ来しが
(おいきしが)
返す我が余威(よい) 
また猛し(たけし)
十九
牧田川添(ぞ)ひ ひと筋に
行く行く敵を けちらして
駒野(こまの)峠の 夜(よ)にまぎれ
伊勢路さしてぞ おち給ふ(たもう)
二十
献策遂(けんさくつい)に 
容れられず
六十余年の 生涯に
始めて不覚を とらしたる公(こう)の無念や
 嗚呼如何(ああいか)に
   妙園寺詣り考察 2006 その3
  
  西郷ドンも所属していた二松学舎、今回 総代学舎辞退の危機に
     おちいり、他の学舎の方 西郷ドンのひ孫の方が尽力され、
     立派に総代学舎を勤められました、真ン中の学舎の代表の方の、
     感極まる挨拶には深く思うものありました。

  私の母校(高校)にも
30km の山坂を歩く【強歩 大会】と行事が
  ありましたし 長男、次男の小学校の卒業記念の行事は、夜間(明け方)
  親子で山坂を歩くと言う物でした。 娘の卒業記念にはこう言うの
  無かったけど、間違いなく、この鹿児島には

  妙円寺詣り【山坂達者】の教えは今も残っています。
  
鹿児島県の三大 行事として 
  
  何時までも、この教えを、伝え残す為にも
  歩けるまでは甲冑着用で、歩いて詣りに行こう。


水上坂を登り、ホット一息 

水上坂手前で 3人でこの妙円寺詣り の歌を歩いていると
一人加わり二人加わり何時の 間にか大合唱
若い女性が良く歌えるなと振 り返るとシッカリ振り仮名 付きの
カンペ持ってました。 しか し、水上坂になるとこの  歌が一人減り
二人減り 最後は見知らぬオジちゃんと3人で競い合うように
歌ってました。(笑)

水上坂で何人たりとも抜かれる訳にはいかん!!


東軍威望(いぼう)の 恃みあり
西軍恩義に よりて立つ
二十万余の 総勢の
勝敗何れに(いずれに) 決せんや


戦ひ今や たけなはの折りしも醜(しこ)の 小早川(こはやがわ)
松尾山をかけくだり刃(やいば)
返すぞ 恨めしき


前に後に 支へかね
大勢すでに 崩るれど
精鋭一千 われひとり
猛虎負嵎(もうこふぐう)の 
威を振ふ(ふるふ)

  蹶(け)立てて 駒の行(ゆ)
くところ踏みしだかれぬ 草もなく
西軍ために きほひ来てなびくや敵の 旗の色
          
既に足痛 現代の薩摩武士(笑)



■妙園寺詣り考察 2006  その1
 
  
今まで殆ど 足のマメは気になった記憶はないのだが、今年は
   草鞋が足にあわず、10km手前でかなりのマメ
   草鞋も各職人によって微妙に異なるので次回は、予備も含め
   しっかり自分の足にフイットするものを持って行こう。

   今回 自顕流の総師範が裸足を重んじられている
       事がよくわかりました。

   又 上杉謙信公の 鎧は胸にあり 手柄は足にあり 

   特に手柄は足の裏に一杯あった っつー気がします。

   その後、先輩が靴ずれ用のバンドエイドくれて貼ったんですが
   歩き終わって、帰路 温泉ではがそうとするのだか、

    マメの皮ごと剥げてきて、中々思うように剥がれない、
    気合を入れて思い切り剥がすと、バンドエイド部分の皮膚が
    殆ど(しかも深く)はがれてしまい、マメの比じゃないくらい
    痛  い。。。。。。

    明日の本祭がちょっと不安。。。。。。。。

    靴ずれ用バンドエイドはマメが出来る前に貼るもの。

■伊集院到着 関ヶ原合戦屏風    伊集院には烏帽子 陣羽織の
                        子供達がイッパイ  
十三
譜代恩顧(ふだいおんこ)の 将卒ら
国家(くに)の存亡 この時と
鎬(しのぎ)をけづる 鬨(とき)の声
天にとどろき 地にふるふ
十四
篠(しの)を 束(つか)ねて 
降る雨に横たふ屍(かばね) 
湧く血 風なまぐさく 吹き巻きて
修羅の巷の それなれや
十五
薙(な)げど仆(たお)せど 敵兵の
重なり来(きた)る 烏頭坂
(うとうざか) たばしる矢玉 音凄く
危機は刻々 迫るなり
一六
骸(むくろ)も染みて 
猩々緋(しょうじょうひ)
御楯(みたて)となりし 
豊久(とよひさ)を
見るや敵兵 且(か)つ勇み
群り寄する 足速し

妙園寺詣り考察 2006 その2
  
  かなり時代好きで、徳川家康の
  大黒頭巾羊歯具足も知ってる少年から
  
  『
甲冑は良いけ ど、巾着袋からはみ出した
  ペットボトルの先がチョッとねぇ〜

  
  ってダメ出し出されてしまった。。。。。。。。。。

  少年達の夢を壊さん為にも、やるからには徹底して又竹の水筒に
  せんとイカな。

■翌 本祭 2006鹿児島学舎連合 総代学舎 二松学舎
  総大将は西郷さんのひ孫にあたる西郷隆文さん 南州神社にて 
  


二 十一

興亡すべて  夢なれど 敵に背(そび ら)を 見せざりし

壮烈無比(そ うれつむひ)の 薩摩武士

誉 (ほまれ) は永久(とわ) に 匂ふなり

二十二

無心の蔓草 (つるくさ) 今もなほ勇士の血潮に 茂るらん

仰げば月色(げっ しょく) 縹渺(ひょう びょう)と

う たた 往時(おうじ)の な つかしや


sai西郷ドン銅と 2008?

                                          徳重神社境内(妙円寺)にて→

                  2010 豪雨の後の徳重神社



                   2002位 ?                         2007