関が原の合戦がすぐわかる
妙円寺詣りの歌
一
1明くれど閉ざす 雲暗 く
薄(すすき)かるかや そよがせて
嵐はさっと 吹き渡り
万馬(ばんば)いななく 声高し |
二
銃雷(つついかずち)ととどろけば
太刀稲妻と きらめきつ
天下分けの たたかひは
今や開けぬ 関ヶ原 |
三
石田しきりに 促せど更に動かぬ
島津勢 占むる小池の 陣営に
鉄甲堅く よろうなり
|
四
名だたる敵の 井伊本多
霧にまぎれて 寄せ来るや
我が昌巌(しょうがん)ら
待ち伏せて 縦横無尽に
かけ散らす
|
薬丸自顕流 総師範と南州神社にて
20Kmの道中 写真左の鹿児島学舎連合でもあり、鹿児島の歴史の
語り部でもある先輩に、色々な話を聞きながら歩き、
ここぞとばかり、その由来を聞いてみたところ、納得の行く答えを
教えてくれましたので、この場に、そのまま記載しておきます。
『チェスト〜』の由来
薩摩 大隈では島
津家
にのみ伝わった剣術【陰之流】の
奇先(かけ声)が『チェ〜』と発生され、島津の殿様は
将卒らに、『チェ
〜っと行かんか!!』と檄を飛ばして
いたとされ、これが 『チェスト〜行け!!』
に変化したと考えられる、
恐らくそう言う事だろう
と
教えてくれました。
納得。そして
薩摩では、島津家のみ許された【陰之流】の 奇先『チェ〜』
を使う事を許された証とも取れる『チェ
〜っと行かんか!!』
の檄は、薩摩隼人にとって非常に名誉ある言葉だったのだろうと
と思う 山坂の道
■丁度中間地点 チェスト館にて ソバをすする。
九
家康いたく あらだちて
自ら雌雄を 決せんと
関東勢を 打ちこぞり
雲霞(うんか)の如く 攻めかかる
|
十
かかれ進めと 維新公(いしんこう)
耳をつんざく 雄叫び(おたけび)に
勇む隼人の
切先(きっさき)の水もたまらぬ
鋭さよ |
十一
払えば又も よせ来たり
寄すれば又も 切りまくり
剛は鬼神(きじん)も 挫けども
我の寡勢(かぜい)を 如何にせん |
十二
運命何れ 生か死か
ここを先途と 鞭ふるひ
奮迅敵の 中堅に
活路を求めて かけ込ます |
■ようやく徳重神社(妙円寺)に無事到着
義弘公と薩摩武士達に思いをはせ詣る。
十七
賜いし御旗 ふりかざし
阿多長寿院(あたちょうじゅいん)
駆け入りて
兵庫入道 最後ぞと
名乗る雄々しき 老(おい)の果(はて) |
十八
欺かれたる 悔しさに
息もつかず 忠吉(ただよし)ら
くつわ並べて 追ひ来しが
(おいきしが)
返す我が余威(よい)
また猛し(たけし) |
十九
牧田川添(ぞ)ひ ひと筋に
行く行く敵を けちらして
駒野(こまの)峠の 夜(よ)にまぎれ
伊勢路さしてぞ おち給ふ(たもう) |
二十
献策遂(けんさくつい)に
容れられず
六十余年の 生涯に
始めて不覚を とらしたる公(こう)の無念や
嗚呼如何(ああいか)に
|
■妙園寺詣り考察 2006 その3
西郷ドンも所属していた二松学舎、今回 総代学舎辞退の危機に
おちいり、他の学舎の方 西郷ドンのひ孫の方が尽力され、
立派に総代学舎を勤められました、真ン中の学舎の代表の方の、
感極まる挨拶には深く思うものありました。
私の母校(高校)にも30km
の山坂を歩く【強歩
大会】と行事が
ありましたし 長男、次男の小学校の卒業記念の行事は、夜間(明け方)
親子で山坂を歩くと言う物でした。 娘の卒業記念にはこう言うの
無かったけど、間違いなく、この鹿児島には
妙円寺詣り【山坂達者】の教えは今も残っています。
鹿児島県の三大
行事として
何時までも、この教えを、伝え残す為にも
歩けるまでは甲冑着用で、歩いて詣りに行こう。
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