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--古代ペルシャの遠い遠い昔のこと--
ある年の秋、ペルシャのシェリマン王は、ヘラト城の高台に腰を下ろしていた。すると突然目の前の庭に、1羽の鷲が舞い降りた。王は、とっさにその鷲が昨年のちょう
ど今頃、蛇に襲われているところを助けた鷲だと気がついた。その鷲は、くちばしの中から穀粒らしい種を吐き出して土の上に置くと、再びどこともなく飛び去った。
王は不思議に思った。そしてその種を宮廷の園芸師に命じて、どんな植物になるか土に埋めさせた。それから間もなく、この種は芽を出し、やがて大きな樹に成長した。
三年目の秋、紫色の粒におおわれた見事な房が実った。だが、この珍奇な果実は、一体どういうものなのか、恐ろしい毒が含まれているのではないかと人々は心配して、誰も試食してみる者はいなかった。そこで王は多量に得られた果房を、土器の瓶(カメ)に集めておくよう命じた。瓶の中で、果房自体は、その重みで破れて、瓶の底のほうに果汁がかなりたまった。
数日後、園芸師は王のところへ青ざめながら報告に行った。
「王様、まったく信じられないことが起こっております。誰も瓶の底に火をつけて加熱しないのに、なぜかぶつぶつと泡が立っています。なんと奇妙な“スープ”なので
す。それも冷たいまま泡立っているのです!」
これは現在では、ぶどう果汁中の糖分が、酵母によってアルコールや炭酸ガスになる醗酵現象だと分かっています。
--美味しいぶどうのスープが出来た!--
一ヵ月後、そのスープは静まりかえり、紫水晶のように輝いていた。誰もがこの液体を気味悪がり、飲んでみる勇気はなかった。そこで王は死刑囚を牢獄から出させて、
そのスープを飲ませ、その男にどんな変化が起こるか見守ることにした。囚人は、王様やなみいる廷臣達の前で、土器の大盃になみなみと注がれた最初の一杯を観念したかのように、ごくりと飲んだ。そしてまったく奇妙な顔をした。ところがその後で彼は、なんと美味そうな顔をして、このスープを二杯、三杯と懇願し、たて続けに飲み干した。
彼の顔はバラ色に輝き、次第に愉快になり、歌などを歌い始めた。なみいる人々は、この様子に目をみはった。囚人はさらに飲み続け、とうとう横にごろりと寝ころんで次の日まで深い眠りに陥った。囚人が再び我に返ったとき、この未知のスープを飲んだ感想を王に報告した。「王様、私は何を飲んだのかわからない。しかしそれはいつもより、愉快で快適なひまつぶしの仕事でした。あのスープには、なぜか素晴らしい酸味があったけれど少しも塩辛くなかった。あんなうまいスープなら毎日飲んでみたい」
この囚人の報告を聞いて、人々はどよめいた。「なんと素晴らしい健康的な飲み物であることよ!」「これは天からのさずかり物である」-王は感激して、この囚人を釈放した。この伝説にあるとおり、初めてぶどうの種をまき、実をつけたワインになった場所は、ワイン発祥の地として記念され、今でも残っているそうです。
昔からマニアに根強い人気のあるのがアール・ヌーヴォーの天才ガラス工芸家、エミール・ガレ。虫、花、貝をモチーフにした繊細で斬新なデザインが特徴で、晩年には家具も手がけた。ガレ工房の作品は小さなランプでも、数百万円。そんなお金のない人はペリエ・ジュエ社の最高級シャンパン、ベル・エポックが狙い目。瓶にはガレが1902年に描いた白いアネモネの復刻版がエナメルでプリントしてある。ラベルの文字にいたるまでアール・ヌーヴォー。シャンパン・ { トルの美人コンテストがあれば、第三位はヴーヴ・クリコ社のラ・グランダム、二位はジャンメール社のエリゼー、そした、満場一致の一位がこれ。パリの芸術家やファッション関係者御用達のシャンパンだ。なお、ベル・エポックのロゼの花びらはピンク。両方欲しくなる。
酒、競馬、ノーベル文学賞と、「飲む、打つ、書く」の政治家がチャーチル。何でも必ず皮肉を言うひねくれ者の英国人だ。この人の御用達として有名なのが、どっしり重厚なポール・ロジェ社のシャンパン。出会いは1944年パリ英国大使館での晩餐会。70歳のチャーチルはポール・ロジェ未亡人にのこシャンパンを勧められ、夫人の色っぽさも影響してか一度で気に入る。なかでも47年物がお気に入りで、1965年に死ぬまでひたすらこれを飲んだそう。ポール・ロジェ社は同社の最高級シャンパンに「サー・ウィンストン・チャーチル」と名前を付けた。大感激したチャーチルは自分の競走馬に「ポール・ロジェ」と命名。競馬もシャンパンも蓋を開けないと分からないところが似ているのかも。この馬が勝ったときは嬉しくて夫人に電報を打ったそう。まお、チャーチルはシガー好きとしても有名。シガーの中に針金を通し、灰が長くなっても落ちないようにして周りの人を不思議がられた。
ワインとシャンパンが大好きな映画監督といえばコッポラだ。特にシャンパンはヴーヴ・クリコがお気に入り。大ヒット作、「ゴット・ファーザー」シリーズの宴会シーンではヴーヴ・クリコの色鮮やかなイエローラベルをよく登場させたし、スタッフも撮影の合間にガンガン飲んだ。あの美しいイエローは芸術家も引きつけるよう。監督は飲むだけでは飽きたらず、カリフォルニアにワイナリーを買い、自分で造り出す。これが、「ルビコン」だ。ボルドー・タイプの高級赤ワインで、紀元前49年、シーザーが「賽は投げられた」と言って渡ったルビコン川からの命名。監督も当初は「出荷後すぐ飲めるよう7年熟成させる」と理想に燃えていた。これでは財政的に大変だと思っていたら、破産した。でも、このワイナリーは何とか持ちこたえた。賽は投げられたが、勝負は投げなかったよう。なお、現在の醸造責任者は、天才醸造家、トニー・ソーター。
ワイン造りでは、葡萄を摘み終わったらすぐに発酵させるための仕込みに入る。この仕込みは、後々のワインの品質を決める重要な行程だ。例えば、その年の葡萄の糖度を見て、足りなければアルコール度数を確保するために糖分を足す。発酵温度を変える。葡萄果汁を攪拌する回数を増減するなどなど。こうした複雑なことを采配するのが醸造家。この中には、大学でワインの醸造を専門に学んだ人もいる。
しかし、こと新世界ワインの場合、その造り手たちは、ついこの前まで、自分達が日常飲むための安い、そのわりにはイケルワインをつくっていればよかった。だから仕込みも、そんなに神経質にならず、勘に頼ってやる者が大半だった。わざわざ醸造家をおいているワイナリーなど、ごく少数だったのだ。ところが、新世界ワインが世界で注目を浴びて輸出が伸びてくると、当然、そういうアバウトな仕込ではまずくなってきた。毎年、安定した品質、そしてなにより良いワインを造らなければならない。そのためには腕の良い醸造家の助けが必要になってきたのだ。ところが、国内にはまだ醸造家が育っていない.....。
そこで今、新世界ワイン業界でひっぱりだこなのが、「空飛ぶ醸造家」達である。都合のよいことに、南半球は、北半球と季節が逆転している。当然、ワイン造りの季節も北半球とずれる。葡萄の収穫時期は3月から4月。その後、すぐ仕込みに入るわけだ。そこで、この時期ちょうどヒ } な北半球の優秀な醸造家が、助っ人として呼ばれるのである。ここ数年、毎年3〜4月になると、フランスやカリフォルニアの有名なワイン生産者のもとで働く醸造家が大挙して、飛行機で一路、チリやアルゼンチンのワイナリーに飛ぶ現象が起きているという。今、ワイン業界では、そんな彼らのことを「フライング・ワインメーカー(空飛ぶ醸造家)」と呼んでいる。
ワインにハマると、誰もがこの人物に出くわすはずである。ロバート・M・パーカー。ミステリー作家のロバート・パーカーではない(こちらは、MではなくBだ)。ワイン批評誌「ザ・ワイン・アドヴォケイト」の編集発行人で、世界的な権威があるとされるアメリカのワイン評論家のことである。
いったい、どれくらい権威があるのかといえば、例えば彼が絶賛したボルドーの「ル・パン」というワインは、それまで日本円で2000円程度の代物だったのが、たちまち30万円にはねあがった。反対に、パーカーが酷評したワインの中には、価格が暴落するのを恐れた醸造元が醸造法を変更してしまった、というほどの権威なのである。では、なぜパーカーの批評はかくも影響力があるのか?その理由は、一言で言うと彼のワインの採点法にある。彼は、どんなワインでも、100点法で採点してしまうのだ。ワインの評価というと、きわめて抽象的ないい方をされたり、わかったようで分からない形容詞が沢山ついてまわるものだが、なにせ100点満点の○○点というのだから、これは子供でも、フランス語の分からない外国人にも分かる。
もちろん、これを普通の人がやっても誰も信用しないが、パーカーの場合は、「ザ・ワイン・アドヴォケイト」を発行して26年というキャリアがある。しかも、1日に80種類前後ものワインをテイスティングするという恐るべき舌の持ち主ときている。その彼が、例えば「Ch.ラフィット・ロットシルト1962」は88点という具合にズバリと採点してくれるのだから、これはかなりの説得力があるというべきか。もっとも、その採点基準は、「100〜96点.....そのカテゴリーのワインの典型として期待される、深く複雑な個性を持つ秀逸 なワイン」「95〜90点.....著しい複雑さと個性を備えている傑出したワイン」と、かなり抽象的なのだが、それでも、フランス流のあいまいな批評には、いまいちピンとこないアメリカ人と日本人には、絶大といっていいほどの支持があるというのだ。
まあ、アメリカ人と日本人という世界の2大富豪が支持すれば、なるほどワイン相場を動かすことも出来るわけだが、フランスの醸造元では「ワインは点数化できるほど単純なものではない」と反論しつつも、彼の評価に一喜一憂しているらしい。
アメリカ人は、コレと決めたら、かなり大掛かりなことを平気でやる。例えば、荒野を新たに開墾するとなれば、ダイナ } イトを何発も爆破させて、一挙に土を掘り起こす.....といった具合である。ワイン造りにおいてもしかり。アメリカには、ワイナリーに最適の土地を見つけるために、NASAの人工衛生まで利用した人物がいる。
その名はジョシュ・ジェンセン。サンフランシスコから南に2時間ほど下ったマウント・ハーランの頂上付近にあるワイナリー「カレラ」の現オーナーである。彼はもともとは人類学者になりたくて、エール大学とオックスフォード大学に通っていたが、在学中に偶然ロマネ・コンティを飲む機会に恵まれた。それを飲んで、すっかりワインの魅力にとりつかれたジェンセンは1970年、単身、フランスのブルゴーニュに赴き、飛びこみでドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティの門を叩いたのだ。彼は2年間をそこで過ごし、ワイン造りを生涯の生業にしようと心に決めた。そして、故郷カリフォルニアでブルゴーニュの赤ワインに匹敵するワインを造るという一大目標をたてたのだ。
しかしそれは、常識的に考えれば、およそ実現不可能な目標だった。というのも、ブルゴーニュの赤ワイン造りに使われるピノ・ノワール種は、石灰分を多く含む粘土質で育てないと、独特の風味が現れない。ところが、カリフォルニアは、夏は雨がほぼゼロという乾燥した気候。土壌は石ころ混じりで乾いていて、ピノ・ノワール種の栽培には適さないのだ。だが、ジェンセンは「常識なんてくそ食らえ!」のタイプだったようで、こう考えた。「この広いカリフォルニアの土地、どこかに理想の土地があるはず!」と。こうして1972年、地質学研究所の資料をもとに、愛車のフォルクス・ワーゲンで旅に出た。
しかし、2年近く探し回っても、石灰質の土壌は見つからなかった。ジェンセンはついに地質学研究所の資料をあきらめて、NASAの人工衛生が撮影した写真を手に入れた。それをもとに、あまり人が足を踏み入れないマウント・ハーランの山頂まで登ったところ、まさに石灰岩そのものが露出した斜面を発見。そこにとっておきの苗を植え、ワイナリーを開設したのであった。とっておきの苗とは、彼がロマネ・コンティの畑から密かに持ち出したピノ・ノワールの苗木らしい( { 人は否定している。というのは当時、他国からの持ちこみは禁止されていたから)。
小説を彩った名ワイン
バイセクシャルの女性ばかりが、SMプレイ中に惨殺されるという連続猟奇事件が発生。担当するのはアメリカのテキサス州ヒューストン警察の殺人課に勤める33歳の女刑事パーマ ー。そして彼女が一緒に仕事をしているのは、FBIから支援にきた、倒錯犯罪を専門とする初老の特別捜査官。夜遅くまで仕事をした後に、ホテルに詰めている捜査官を女刑事がサンドイッチでもいかが、と自宅に誘うシーンがある。「何でも好きなものを飲んでください。冷蔵庫にワインとビール、それにアイスティーがあったと思います」と彼女はすすめる。そこで2人が飲むのは辛口の白、イタリアのヴェネト州のソアーヴェ。若いうちが飲みごろの安いワインとはいえ、ワインを冷蔵庫で冷やすとはちょっと乱暴。
実は女刑事は2年前に結婚したがうまく行かず、半年前に離婚したばかり。一方捜査官も、妻を数年前にガンで亡くし、娘も大学の寄宿舎に入ってしまって、いまは1人暮し。血なまぐさい事件で知り合った2人は、お互いの寂しい状況を慰めあうようになる。そのときに捜査官が探し出すのはブルゴーニュの赤。孤独な2人にソアーヴェだけでは淋しすぎるのだ。会話を盛り上げ、心を弾ませるのはやはり赤。とはいえ、女刑事が赤を買い置きしておきつつも、ひとりのときにはその栓をぬいていないというあたりにも、作者の細かい心理描写がうかがえる。
小説を彩った名ワイン
原子力発電所の所長アレックス・メイヤーのかつての愛人ヒラリー・ロバーツが、いつもの習慣である夜の水泳を終えて浜に上がったところを何者かに殺されてしまった。連続殺人鬼「ホイッスラー」の手口と同様の殺害方法だったが、「ホイッスラー」はその3時間前にホテルの一室で自殺を遂げていた。
登場する人物の1人1人のキャラクターがしっかり描写されており、随所に伏線の張り巡らされた本格派推理小説といった手応えを感じさせるすぐれた作品だが、ワインに関する伏線はどういうわけだか謎のままに終わる。被害者が海へいく前に、発電所所長との結婚を夢見て飲んだワインは、クラレット。シャトー・タルボの79年物だ。決して台所で立って飲むような気軽なワインではないと文中で警官に説明されるような品格品格あるワインである。減っているのはちょうどグラス一杯分なのだが、きっちり洗って残されたワイングラスはワイングラスは2個。
この理由はあらかじめ読者には説明されているのだが、もちろん本のなかの警察官たちにはわからない。それがいかにも意味ありげに描写されているのだが、その後この問題は展開することなく終わってしまう。いわばミステリーのなかの謎である。
小説を彩った名ワイン
小説家である語り手が、鼻持ちならない金持ちのセフトン・ハミルトンとワイン協会の会長であるフレディ・バーカーと知り合ったのは、ヘンリー・ケネディー夫妻の家で開かれたパーティーの席上でのことだった。おしゃべりなハミルトンと、話すべきときをわきまえているバーカーとの間に不穏な雰囲気が流れ出すのは、すばらしい食事のしめくくりに出されたサンデマ ンの1970年物のポルトから。「あんたは自分をワインの権威だと思っているんだろうね」と絡むハミルトンは、「ワインの権威は皆ペテン師だ」という自説を証明すべくバーカーに賭けを申し込む。
自分の所有するイギリス最高のワインセラーで寝かしてある、4種類の最高級ヴィンテージワインを当てろというのだ。彼の挑発にのったバーカーは、一緒に招待されたヘンリー、語り手とともにセフトン・ハミルトン邸へと乗り込む。そこで出される4種類 のワインを注ぐのは、ハミルトンとともにワインを選んだ執事のアダムス。自信たっぷりにワインの種類をのべるバーカーだが、ことごとく外してしまう。しかし青ざめて、冷静さを失うのはバーカーではなく執事のアダムスだった。
結局すべての銘柄を外し、200ポンドを支払いペテン師呼ばわりされたバーカーだったが、彼はそれを甘んじて受ける。そして3人が夕食をとるために予約していた「ハミルトン・アームズ」に執事のアダムスが現れて.....。最高級のワインを所有するのは金持ちでなくてはかなわないが、最高級のワインを味わうには、金持ち以上に必要なものがあるのだ。
レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」とシャンパーニュ・コルドン・ルージュ
小説を彩った名ワイン
「ギムレットにはまだ早い」。たとえこの小説を読んだことのない人でも、この台詞を目や耳にしたことのある人は多いに違いない。ハードドボイルドの名手、チャンドラーの作品の中でも、これが一番との呼び声の高い「長いお別れ」は、また男の友情を描いた作品としてもすぐれたものである。ライムとジンでつくられるカクテル、ギムレットが全編を貫く、男の友情のシンボルだとしたら、男と女の間に登場するのはやはりワイン。物語の終わりに用意された大どんでん返しの前に、私立探偵フィリップ・マーロウは事件にかかわりのあった女と一晩を過ごす。そのときに用意されていたのは、2本のシャンパン。お互いに本当に愛しているわけではなく、またお互いにそのことを知っている2人の間を埋めるのが、「本当に祝う価値があるのなら」とうてい足りない、たった2本のゴードン・ルージュだった。
小説を彩った名ワイン
舞台はロンドン。たった1本のワインの利き酒をめぐって、2人の男がとんでもない賭けをする。スコウフィールド家の晩餐会の席上で、美食家のプラットがつぎつぎに用意されるワインの産地や年代を当てていく。最後にスコウフィールドが、絶対に当てられるはずがないと取り出したのは、1本のクラレット。地方、地区、村はおろか、葡萄畑まで当てられたら、18歳になる娘を、醜男で変わり者のプラットにやるというのだ。もしプラットが負けたら、かわりに家2軒を取るという条件で賭けを始める。
ワインを口に含み、舌と唇でワインを味わいつくし、そのワインの地方、村、とその銘柄を探り出していく、緊迫感あふれる利き酒の様子や、ワインの味を表現するボキャブラリーの豊富さは、さすが。その賭けの末に用意されている意外な落ちも心憎い。賭けの時の異常な人間心理と、ワインの魅力をあますところなく描ききった傑作短編である。
小説を彩った名ワイン
読むだけでワインを飲みたくなる、そそられる小説といえば、リチャード・コンドンの「ワインは死の香り」。かつて海軍の要職にあり、いまはワイン商をつとめる主人公が、その知識を駆使してボルドーワインの強奪を狙うという筋。いわゆるグルメとでもいうのだろうか、主人公は料理とワインをこよなく愛する男なのだが、その食事風景の描写には唾がわく。大雑把な味付けのオニオンソースで食べる仔牛の肋肉に、55年もののCh.キャノン、ドニペリロゼの61年ものにキャビアなど、ワイン通を自認するコンドンならでは。享楽的で破滅的な犯罪者なのに、憎めない主人公に魅力を感じてしまうのも、ワインの美味しさと魅力がしっかり描かれているからだろう。
小説を彩った名ワイン
競馬ファンにもミステリーファンにもおなじみの、イギリスの作家ディック・フランシス。丹念に描かれたディティ―ルと張り巡らされた伏線の見事さに、読み終えた者は思わずため息をつかされる。ディックといえば競馬、ということに異を唱える人はいるまいが、ワインの薀蓄もなかなかのものである。まずは「証拠」。英語の原題「プルーフ」は「証拠」のほかに「アルコール度」の意味をあわせもつ洒落たタイトルとなっている。
事件解決の鍵を握るのは、馬に詳しいワイン商の、酒に関する知識と利き酒の力。これでもかとばかりに登場する洋酒の数々を巧みに操り、サンテミリオン、サンテステフなど、次から次へと登場する赤ワインが、実は....という展開は見事というほかない。
「証拠」のワインが直接物語にかかわってくるのとは違って、「黄金」でのワインは、登場人物のキャラクターを描写するために暗喩的に登場する。やり手企業家のマルカムの妻が殺され、彼もまた命を狙われるという筋書き。マルカムの性格をあらわすのが、彼がこよなく愛する葉巻と { ランジェのシャンパーニュ。しかも物語の一つのポイントとなるのは、ポール・ロジェのヴィンテージ・シャンパーニュ。ピノ・ノワールの熟成感のあるシャンパーニュが、一見冷酷そうだが味わい深いという彼の性格を雄弁に語っている。
歴史を変えたワイン
フランス革命とナポレオン戦争後の諸問題を解決するために、オーストリア外相のメッテルニヒの提案で1814年に国際会議が開かれた。「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたウィーン会議である。この会議は1814年9月にはじまり、終わったのは翌年の6月。じつに9ヶ月もやっていたのだ。こんなにも時間がかかったのは、諸国間の権益をめぐる議論が紛糾し、なかなか進まなかったためと一般には説明されているが、酒に酔っていて会議にならなかったという説もある。
この会議の際に、オーストリア政府はなにを思ったか、各国代表の接待に巨額の費用を投じ、メッテルニヒは会議が膠着すると、饗宴や舞踏会で事態の解決をはかったのだ。話し合いがうまくいかなくなるたびに、美味しい料理がたんまり出てくるとなれば、やる気をなくすのも当然。なかでもナポレオン軍がヨーロッパ中に広めたシャンパンの味は、出席者を魅了した。
会議中惜しみなくふるまわれたシャンパンの味に、一筋縄ではいかない政治家達もメロメロ、会議は曖昧なままになってしまったというのだ。この会議の紛糾と復位したルイ18世への国民の不満を見て、ナポレオンは15年3月にエルバ島を脱出し、パリに戻り復位を宣言。ウィーン会議はこれを潮時に妥協に向かった。もしもウィーン会議が成功していたら、その後のナポレオンの動きも違ってきただろうし、ヨーロッパ史は大きく変わっていただろう。シャンパンは世界を変えた、まさに魔酒である。
歴史を変えたワイン
アメリカ独立戦争のきっかけといえば、「ボストン・ティー・パーティー」。本国イギリスの下した、紅茶にも税をかけるとの決定に業を煮やしたボストン市民が、港に係留中の本国の船に乗り込んで、積荷の紅茶を海に投げ捨てたという事件である。つまり、独立戦争を起こすきっかけは紅茶だったというわけだが、じつはワインがきっかけだったという説がある。このボストン・ティー・パーティーにさかのぼること5年、ジョン・ハンコックは、 } ディラワインが届くのをまっていた。のちにアメリカ独立宣言に最初のサインをすることになる男だ。ところがアメリカに届いたそのワインを、イギリス海軍が奪うという事件が起こったのだ。 { ったのはジョン・ハンコック。強硬な抗議を執拗に続けるのだが、一向にらちがあかない。そこで彼は実力行使に出た。仲間を集め、船に乗り込みワインを取り返したのである。これを知った市民は大喜び。これが事実上の独立戦争の開始だったというのが、独立戦争のきっかけの異説である。この話の是非は別として、酒のみの酒に対する情熱は、決してふみにじってはならないということはわかる。
歴史を変えたワイン
19世紀と20世紀を分ける分水嶺、第一次世界大戦。それまでの戦争とは一線を画す大規模戦に敗れたことで、ドイツは経済的に大きな負担を強いられた。その後大不況となり、それがヒトラーの登場、ナチスの台頭を招いていく。いわば一つのエポックだったわけだが、そのドイツの敗戦の原因は、じつはワインだったという説があるのだ。1918年5月、ドイツ軍はフランスを占領すべくパリ目指して快調に進撃していた。率いるはルーデンドルフ将軍。パリ陥落の手柄は彼の手に落ちるはずだった。パリまであと60キロの地点まで進んだそのとき、彼らの目の前に広がっていたのは、なんとワインの名産地、シャンパーニュ地方。長い軍隊生活に疲れてしまったのだろうか、勝利を目の前にして気がゆるんでしまったのだろうか、とにかくドイツ軍は誘惑を断ち切れず、シャンパーニュ地方に侵入してしまったのだ。5月30日の朝、シャンパーニュ地方のフイメ村のそこここに、二日酔いで倒れ伏しているドイツ兵たちがみられた。もちろんそんな状態で、まともに戦えるわけがない。ドイツ軍は、その間に態勢を立て直した米仏軍に反撃をくらい、あっさりと敗北したのであった。ドイツ兵の酒好きが、第一次世界大戦の行方を左右し、ひいては第二次世界大戦のきっかけになろうとは....。
フランスのボルドー地方でも、一級と各付けされた5大シャトーのうちのひとつ、シャトー・マルゴーは、建物の優雅さと味わいの繊細さから、女性らしいシャトーといわれている。この気品あふれる赤ワインのファンは多く、歴史に名を残す愛好家もいる。たとえばドイツの思想家エンゲルス。親しい友人であるマルクスの娘ジェニーに「あなたの幸福感とは」と聞かれて、「1848年産のシャトー・マルゴー」と答えたという。また、かの文豪ヘミングウェイの孫娘の名はマーゴというのだが、これはシャトー・マルゴーに因んだもの、「このワインのように女性らしく、魅力的に育つように」との願いをこめてつけられたのだ。長じて彼女が映画女優になったというのはあまりに有名。
パリの北東150キロほどのところにあるシャンパーニュ地方。この地方でつくられたものだけがシャンパンと呼ばれるわけだが、そのなかでも有名なのが「ドン・ペリニョン」。シャンパンの王様だ。質のよいワインがつくれなかったこの冷寒地からシャンパンが誕生したのは、まったくの偶然だった。ある日、オーヴィレールという修道院をしていた僧、ドン・ペリニョンが蔵のなかを見まわっていると、突然、ワインのコルク栓がポーンという音をたてて吹き飛んだ。数日前、まだ完全に醗酵し切ってない瓶に、うっかり栓をしてしまったのが原因だった。あわてて駆け寄ったドン・ペリニョンが「もったいない」とすくって飲んでみるとどうだろう。いままでに飲んだことのないような、発泡性の美味しいワインになっていたのである。
ワイン通の間では知らない者はない超一流品、ロマネ・コンティ。その品質の高さと、年間で5、000本前後という収穫量の少なさのせいで、フランス人でさえもめったに飲めない憧れのワインだが、「ロマネ・ポンパドゥール」と呼ばれることになったかもしれないという話をご存知か?ルイ15世の統治下、当時すでにワインの産地として高い評価を得ていた、ブルゴーニュ地方はヴォーヌ・ロマネ村にあるブドウ畑が売りに出された。この畑の所有権をめぐって争ったのが、ルイ15世のいとこ、美貌の貴公子プランス・ド・コンティ王子と、ルイ15世の愛人で、当時権勢を誇ったポンパドゥール夫人であった。結局この争いに勝利したのは、コンティ王子。この畑からとれるブドウでつくったワイン「ロマネ」は、王子の宴会に招かれた者しか口にすることができなかったため、人々の羨望の的となり、王子の死後、王子の名をとって「ロマネ・コンティ」と呼ばれるようになった。
ローマ神話のバッカスは本家のギリシャ神話でいうところのディオニソス。彼は悲惨な生い立ちの神様だった。神のなかの神ゼウスと、その愛人セレメの間の子だ。ディオニソスがまだお腹のなかにいるときに、母セレメは、本妻ヘーラの嫉妬の炎で焼き殺されてしまった。母は普通の人間だが、子供は神の子なので生き残った。子供に罪はないと、死んだ母の体内からゼウスによって取り上げられ、里子に出されたものの、その後も嫉妬深いヘーラによっていびりぬかれ、とうとう重い病気にかかってしまう。継母に捨てられ、各地を放浪していたディオニソスだが、ある日女神のレアに出会い彼女のやさしい愛を注がれ、立ち直ることができた。そしてギリシャのイカリアにやってきた彼は、村人たちに崇められ、そのお礼にワイン造りを教えた。なぜ彼がその方法を知っていたかは謎であるが、とにかく彼はワインの始祖、酒の神として崇められることとなった。その後も彼は、あちこちの国にワインの製造法を伝えて歩いたのである。
誰でも良く知っている聖書の物語に、旧約聖書に登場する「ノアの箱舟」がある。堕落して神を信じなくなってしまった人類に怒った神は、人類を滅ぼそうと大洪水を起こすが、信仰を守りつづけてきたノアとその家族だけは助けようと、大きくて丈夫な方舟をつくるように命じる。こうして全種類の動物と一緒に方舟に乗り込んだノアの家族が助かったのは有名な話しだが、方舟から降り立ったノアが最初に行ったことは知られていない。ノアが最初にしたこと、それはワインをつくるためのブドウ畑造りだった。そして収穫したブドウからワインをつくったノアは、大喜びで飲んだ。飲みすぎといってもいいほどに。聖書によればこうである。「ブドウ酒を飲みて酔い、天幕のうちにありて裸になれり」つまり、ワインを飲んですっかり酔っ払ったノアは、ストリップよろしく、服を脱いで寝てしまったのだ。そこにやってきたノアの息子は、親に恥をかかせてはいけないと、寝ているノアに衣服をかけてやった。ところが、眠りから覚めたノアは、恥ずかしく思ったのか、息子を怒鳴りちらした。これが、世界最初の酔っ払いの神話である。
時は1870年。イギリスはロンドンで行われた「エカルト」という芝居で、演劇界に前例のない、そして今後もないであろう演出がなされた。この芝居の脚本を書いたのはニューリ卿。彼はこの芝居のなかにあるピックニックシーンに、なんとかリアリティをもたせたいと考えた。そこで彼が考えだしたのは、演出ではなく、本当に飲み食いをすればいい、という案。ニューリ卿は一流レストランの料理がつまったバスケットとシャンパンを用意し、気前のいいことにシャンパンは飲み放題にした。とにかく本物のピクニックに近づけようとした。ところがというべきか、やはりというべきか、とにかく豪華な料理とシャンパンを存分に楽しんだ主役のミス・ニータ・ニコティナは、芝居半ばにして台詞が出てこなくなって観客に愛想笑い。それを見守る共演者たちもゲラゲラ大笑いしたり、舞台装置に寄りかかったりして大騒ぎ。しまいには男性の主役がすべての台詞をまくしたてたあと、舞台上で大いびき。さんざんな結果となってしまったのだ。もちろん怒ったのは金を払って見に来た観客。怒りのブーイングで劇場は騒然となり、やむなく芝居は中止となった。実験的な試みとして見てみれば、結構楽しめたかも。
いまでこそ、世界的に優れたワインの産地として認められている南アフリカ共和国だが、かつては、かの悪法アパルトヘイトのせいで、世界中から経済制裁を受け、沈黙を強いられていた。経済制裁自体は1991年に解かれたものの、その後もアパルトヘイトのイメージのせいで、南アフリカのワインは長く低迷する。そんな状況を救ったのは、一人の下戸だった。1994年に行われた選挙で大統領に就任したマンデラ氏は、イギリスを訪れ、バッキンガム宮殿の前に立ちマスコミデビュー。そのとき手のしていたのが南アフリカワイン。彼はまったくの下戸にもかかわらず、笑顔でボトルをかかげて、カメラに収まってみせたのだ。この映像が世界に配信されたことで、南アフリカワインは南アフリカ共和国の国際復帰のシンボルとなり、翌日から飛ぶように売れ出したという。
世の中には変わった説を唱える人がたくさんいるものだが、「民主主義を生んだのは酒だ」という人がいる。古代ギリシャ人が酒を飲みつつ議論をかさねていくなかで、民主主義が育っていったというのだ。意外な説だが、あながち見当ちがいとも言えない。たとえば、かの有名な哲学者プラトンは、「酒は、まことを語るもの」といい、アルカイオスも「真実なる酒神は、心の奥に隠れたことも打ち明けさせる」といったそう。つまり、アルコールが入ることで、人は素直に心の中のことを語るようになり、本音の議論に発展していくということだ。彼らはワインを酌み交わしながらの議論の末、ある結論を得たとしても、それだけでは納得しなかった。明くる日もワイン片手に同じことについて語り合い、明日と同じ結論に達してはじめて、それを正式な答えと認めたそうだ。これが各自の意見を主張し合い、対話を重んじる民主主義のはじまり。この本音を語る議論は酒があってこそだったというのだ。
モスクワにワイン好きの男がいたが、配給制で月に1本しか飲めない。スターリンがムートンやラトゥール、ヴーヴ・クリコみたいな高級ワインを毎日6本も飲んでいると聞き、頭にきたその男はクレムリンの共産党本部に殴りこみをかけた。そして、「スターリンはアル中の大バカものだと叫び窓ガラスをたたき割った。男は逮捕され、ソ連邦人民裁判所で30年と1週間のシベリア流刑を宣告される。内訳は、器物破損罪として1週間、残りの30年は国家機密漏洩罪だった。
イギリスのブレア首相を迎えてえて晩餐会をすることになったクリントン大統領、ワインを選びにホワイトハウスの地下セラーに降りていった。アメリカ独立当時の古酒、ラフィット1786年の埃をきれいに拭いたところ、突如魔人が現れた。「私を清めてくれたお礼に3つの願いを叶えてやろう」大統領はしばらく考えて言った。「最初に、グランヴァンやシャンパンに不自由しないようにしてほしい」、たちまち、セラーはペトリュスやDRC、クリュグで満杯になった。「次は美女だ」煙が出て、知能指数より胸囲の方が大きいイケイケ風お姉さんが10人も現れた。「最後は、グランヴァンを飲んで美女にかこまれ、一生働かずに暮らしたい!」、煙が出て、気がつくと大統領はオーバル・ルーム(大統領執務室)に戻っていた。
パリのエリゼ宮で外交官レセプションが大成功に終わり、シラク大統領は各国の外交官に幻のワイン、シュヴァル・ブラン’47を1本ずつ贈った。でも、大量の澱が舞っている。
アメリカ大使:帰宅してすぐフィルターで澱を濾過して飲んでしまった。
日本大使:1週間、ボトルを立てて澱を落とし、デカンタージュをして飲んだ。
ドイツ大使:「ワイン飲用規則」第817条7項の「澱が50mg以上55mg以下の飲酒細則」に従って飲んだ。
イギリス大使:あと20年熟成させることにした。
中国大使:氷を入れ、充分冷やして飲んだ。
イタリア大使:澱のないキャンティと交換した。
ロシア大使:帰宅後、澱に気づかないまま、ラッパ飲みした。
ある年、サンフランシスコのワインミュージアムでは1500種類のワインオープナーを一堂に集め、コンテストが行われた。その中で、堂々の1位の評価を得たのが「スクリュープル」というタイプだったのだが、これを発明したのは意外なことにワインとはまったく畑違いの人だった。
その人物とは石油採掘技術で一財を成したハーバード・アレンという人で、1980年に引退するまで石油関連業界で50年近く活躍しつづけ、石油採掘関係の特許も数多くとっているアイデアマンである。アレン氏は、非常にワイン好きで、1万本以上のワインをストックして、夕食のたびに何本ものワインを開けていた。このワインをあける役が奥さんだったのだか、彼女はワインを開けるのがよほど苦手だったのか、あるとき、引退して悠々自適の生活を送っていた夫に「絶対失敗しないで開けられるオープナーをつくってよ」とせがんだ。
最愛の妻のためにと、久々に一念発起、2年間試行錯誤の末、ついに出来あがったのがスクリュープルだったというわけ。悪いオープナーは、コルクを貫くらせん状の針が、コルクの中心から外れてしまい、また針がコルクにあたえる抵抗が大きいので、開ける途中でコルクが砕けやすい。そこで、らせん状の角度、材質、コーティング剤の面で、十八番の石油のボーリング技術を応用したのだ。いまでは、スクリュープルは世界16カ国で発売され、多くのワインファンに愛用されている。