ContentsTOPベテラン職人の素顔稲吉 勝人
 



「ガガガッ……!」というミシンの音が賑やかな日中の工房に、周囲とは明らかに違う空気を持ったひとりの熟練職人がいる。その名は稲吉勝人。専門はボストンバッグをはじめとする一般バッグで、東京都知事賞をはじめ日本かばん協会や全国百貨店組合等が主宰する各種鞄コンクールで数多の入賞経験を持ち、70歳を越えた今もなお現役という超熟練職人だ。現在は土屋鞄製造所主宰・土屋國男との40年以上にわたる親交から工房の作業に加わるとともに、若手・中堅職人の技術アドバイザーとして後進の指導に当たる。作業中は沈思黙考といった風情だが、普段は微笑を絶やさない温厚な職人だ。
さてその稲吉さんの職歴は実に53年を数える。だが「父と兄が“何でも職人”で、鞄から背広にいたるまで、ミシンでできるものは何でも作っていた」ということで、実はずっと小さい頃から自然とものづくりに親しんでいたという。そんな環境から、さぞかし厳しい訓練を施されたのでは……と思い尋ねてみると、「いやあ、何にも教わらなかったねえ。僕のは全部、自己流」とのお答え。なんと「作業を見ているだけで、同じことがすぐできたんだよね」ということで、稲吉さんは、他から教わることなしにひとりで技術を習得してしまったのだそうだ。まさに、職人になるべくして生まれたような人なのである。
そんな稲吉さんだが、ごく若い頃は思うところあって、最初はなんとサラリーマンとして就職。ところが全身に流れる職人一家の血がそれを許さなかったのか、そこを1年ちょっとで退職。今度は、いきなり鞄職人として独立してしまったのだ。それから鞄職人として生きること53年。人知れぬ苦労がゴマンとあったはずだが、稲吉さんは天性の才能と貪欲なまでの研究心、そして常に最高を求める職人魂でメキメキと腕を上げる。その結果、各種鞄コンクールで賞を次々に獲得し、様々なメーカーの見本製作を依頼されるまでになった。しかし「実は飽きっぽい質でね。同じものを何百とつくるのは性に合わないんだ」という稲吉さんはどこにも属さず、一匹狼として鞄製作を続けていく。それでも稲吉さんのもとには注文がひっきりなしに入ってきたというから、それだけ評価が高かったのだ。

だが真に驚くべきは、稲吉さんの製作スタイルである。普通、製品の完成までには何度も試作をつくり、手直ししながら作っていくが、稲吉さんは違う。「つくるときは一回で完成させる。それが僕の流儀でね」。何と、稲吉さんは頭の中で徹底的に設計を練り込み、完璧な組み立てを脳裏に描いてから型紙を切り、そのまま鞄をつくってしまうのだ。それで、ほとんど失敗したことがないというのだからすごい。まさに一発必中だ。ちなみに稲吉さんは、街で見かけた気になるバッグを記憶し、家に帰ってからそれをそっくり再現することができるという。デザインを見ただけで、そのおおよその設計図が頭に浮かんでくるのだそうだ。一発製作とは、そのような凄まじいセンスと豊富な経験値をもってしてはじめて可能な神業。稲吉さんこそ、まさに“必殺仕事職人”というに相応しい匠だ。
 
文章/山添剛
掲載日 2005.7.7
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