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大阪鶴橋コリアタウンガイド
  • 大阪・鶴橋コリアタウンとは。

    大阪・鶴橋コリアタウンとは。

    JR環状線の鶴橋駅と桃谷駅の真ん中あたりに位置するコリアタウン。鶴橋は在住するコリアンの多さから日本最大のコリアタウンと言われております。かつて「朝鮮市場」と呼ばれた街は、1993年(平成5年)から「コリアタウン」の名称を使うようになり、在日コリアンにとって食材・日用品などが豊富に揃う生活に密着した市場でした。商店街はエリア毎に東・中央と分かれ、「百済門」「御幸通中央門」が完成。その後、2002年日韓共催ワールドカップで一躍注目を浴び、続く「韓流ブーム」で鶴橋駅西側一体から続く「大阪・鶴橋コリアタウン」として一気に全国区となりました。

  • 韓国料理の食材ならなんでも揃う!

    韓国料理の食材ならなんでも揃う!

    コリアタウンでは、スーパーにはない珍しい食品がたくさん並んでいます。例えば、包み野菜に必要はごま葉、韓国風に調理した豚足、季節の野菜で作った様々な種類のキムチなど、本場韓国さながらの食材がたくさん。一方、日本で食べる機会も増えてきたチヂミやトッポギなど屋台メニューも充実していて、訪れた人が気軽に韓国料理を食べることができます。最近の韓流ブームでさらにコリアタウンでは盛り上がりを見せており、地元の人々の生活スペースでありながら、観光客が多く訪れるスポットとなっています。

  • 修学旅行生、フィールドワークが増えていること。

    修学旅行生、フィールドワークが増えていること。

    観光客の増加とともに、学生さんたちが訪れる機会も増えています。食を通じてたくさんの方に韓国の文化を知って頂き、韓国をより身近なものに感じていただくために、修学旅行生やフィードワークで訪れる方を歓迎しております。キムチ漬け教室や伝統的な衣裳であるチマ・チョゴリを着付け体験などもあり、旅の思い出に写真撮影したりお土産を買う光景をよく目にします。

  • 季節毎にイベントがあること。

    季節毎にイベントがあること。

    コリアタウンで行われるお祭りは普段と一味違う雰囲気になります。各商店がセールになり、地元学生による民族衣装を着ての踊りやパレード、韓国式のおでんの露店など、一味違ったコリアタウンを見ることができます。

  • タレント御用達の名店があること。

    タレント御用達の名店があること。

    鶴橋といえば「焼肉」が有名です。駅を降りればすぐに焼肉の匂いがプーンとしてきて食欲をそそる街ですが、それだけに名店が数多く存在し、多くの芸能人が訪れています。テレビ取材や撮影なんかも多くて、先日はサザンの桑田さんが番組で来られていました。運がよければ芸能人に出会うことがあるかもしれません。

  • タレントさん御用達のお店が数多くあること。

    韓国芸能グッズも買えること。

    食材に限らず、最新の韓国情報が手に入る街なので、韓国の芸能人グッズが買える店もあちこちに。韓国の最新情報を掴みたいならスタッフに聞いて見るといいかも・・・??

大阪鶴橋コリアタウンの歴史
コリアンの海外移住

コリアンの海外移住

明治維新後、日本は欧米の列強国家がアジア各地に侵略し植民地支配したのに続いて軍備を強化、隣の朝鮮半島に進出し、日本の軍隊を常駐させるようになった。
これが原因となり中国との間に日清戦争が起こり、南満州の利権をめぐって日露戦争が勃発。勢いに乗じた日本は1910年(明治43年)に日韓併合し、植民地支配体制を完成。韓国王は退位し、朝鮮政府は廃され、日本の朝鮮総督府による支配となった。
朝鮮総督府は土地所有を明らかにするために土地調査事業を実施した。
しかし当時、朝鮮には登録していない農民が殆どで、多くの農民が土地を奪われ、零細農民や小作人が増加した。そうしたことで生活破綻した農民が海外に移住した。
どれだけ多くの人が移住したか資料がないため不明であるが、現在海外在住コリアンの人口は、中国東北地方200万人、日本64万人、ソ連55万人、アメリカ210万人という数で推測することができる。

猪飼野(生野)に在日コリアンが多く存在するようになった理由

猪飼野(生野)に在日コリアンが多く存在するようになった理由

第一次世界大戦による好況のなかで人手不足を補うために、また日本人の賃金の半分以下で雇用できる低賃金労働力として、多くの企業が朝鮮へ行き労働者の募集をしていた。その先端を切ったのが1911年(明治44年)西成区の摂津紡績木津川工場であった。
それから次々と大阪の紡績工場や造船所など様々な企業が朝鮮で盛んに人夫募集を行った。猪飼野におけるコリアンの在住は工場労働者の初期集落に始まったと考えられる。その後1919年(大正8年)3月平野川開削工事が開始された。こちらの方が月給が高いというので工事労働者が移ってきて、点在していた初期の朝鮮集落が大きくなっていった。
さらに1923年(大正12年)3月済州島=大阪間に君が代丸が運行(定期航路)するようになってさらに移住者が増加した。この航路が開かれたため大阪は日本のどの都市よりも済州島に近くなった。
済州島出身者を雇う零細工場が猪飼野にあり、風俗習慣も同じで、助け合いの風習が強いことが済州島出身者を猪飼野に定住させることになったと考えられている。