こころとからだの健康タイム・対談編26-1

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 このコーナーでは、エヌ・ピュア社長・鳴海周平が各界を代表する人生の達人との対談を通して、「こころとからだの健幸」に役立つ様々な情報をご紹介しています。毎日の健幸にお役立ていただけましたら幸いです。

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Vol.26 ゲスト:小出義雄さん 【1】

五輪銀・銅メダリストの有森裕子選手、世界選手権制覇者の鈴木博美選手、そして五輪金メダリストであり世界記録樹立者の高橋尚子選手。幾度も、女子マラソン界の歴史と常識を塗りかえてきた名監督・小出義雄さんに、こうした数々の偉業を成し遂げてきた経緯と、健康のコツをお伺いしました。

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鳴海周平(以下 鳴海) 1992年のバルセロナオリンピックでは有森選手が銀メダル、続く96年のアトランタでは銅メダルという連続快挙、そして2000年のシドニーでは高橋尚子選手が新記録で金メダル。他にも数々の勲章を手にした選手を育てた小出監督、本当にたいへんな偉業を成し遂げていらっしゃいますね。

小出義雄監督(以下 小出) いやいや、ただ「かけっこ」が好きなだけなんですよ。子供の頃からずーっと「かけっこ」だけを追っかけてきたんで、神様が「そろそろ、何かあげなきゃ可愛そうだ。」って、彼女たちを授けてくれたんじゃないのかな。(笑)今でも「かけっこ」好きにかけては、誰にも負けない自信がありますね。

鳴海 監督は、ここ千葉県佐倉市で生まれ育ったとお伺いしましたが、子供時代の思い出や「かけっこ」が好きになったきっかけなどを教えていただけますか?

小出子 供の頃は戦時中でしたからね。遊び道具なんて何にもないわけですよ。それが良かったのかな。ただ、走るしかないんだから。(笑)まあ、学校の成績は良くなかったけど、かけっこだけは誰にも負けなかったですよね。
うちの畑の裏に農道があって、ここがまたいい練習場なんです。1周120メートルくらいあってね。でも、雨の日になるとたいへん。ぬかるんで、走れないんだな。かけっこしかやることのない僕にとっちゃ大問題ですよ。だから、駅にあった石炭ガラを皆でリヤカー使って運んで、埋め立てちゃった。もう、これで立派な「全天候型トラック」の完成です。そこだけ真っ黒で、妙に目立っちゃったけど。(笑)でも、そんなことしてもニコニコ黙って見ててくれた大人ばかりだったから、おおらかな時代だったんでしょうね。
それとかね、小遣い稼ぎに近くの神社にいた「フクロウ」を捕まえて、20キロも離れた町まで売りに行ったこともありますよ。結構いい値で売れてね、皆でパン買って腹いっぱいになって帰って来ました。(笑)

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鳴海 往復40キロの道のりですか。その頃から足腰を鍛えていらっしゃったんですね。(笑)そうして鍛えた甲斐あって、監督は陸上の有力校から何校ものスカウトを受け、陸上の名門である山武農業高校へ進学されたんですね。当時のことを教えていただけますか?

小出 もう、毎日が「かけっこ漬け」でしたね。全国でも有数の陸上校でしたから、毎日走ってばかりですよ。お陰様で、3年生で僕が主将を務めた時に県大会で優勝して全国高校駅伝の切符を手にすることが出来たんです。それに、東日本都道府県対抗駅伝にも、千葉県代表として参加することが出来ました。大きな夢が2つも叶って、幸せいっぱいの高校生活でしたね。
でも、僕の家業は農家でしょ。父は高校を卒業したら家業を継ぐ、と思っていたから卒業後の「かけっこ」は認めてくれなかったんです。大学進学も、大好きな「かけっこ」も、両方泣く泣くあきらめました。でもやっぱり捨て切れなくてね。農作業の合間を見ては、ひとっ走りしてくるわけですよ。親父もさすがに可愛そうに思ったのか、そこまでは止められなかったね。(笑)そのうち、高校時代に一緒に走っていたライバル達の活躍している様子が聞こえてくるわけですよ。もう、居ても立ってもいられなくなっちゃってね、家出しちゃった。(笑)
それからは、電話工事のアルバイトや工事現場の作業員をやりながら、毎日走った。そのうち昭和高圧という、駅伝部のある会社が、学生時代の恩師からの紹介で僕を雇ってくれて、また駅伝を走らせて貰うことが出来たんですよ。

鳴海小出監督の情熱は、家出をしてしまうほど凄いものだったんですね。
その情熱がなければ学生時代の恩師も、駅伝部のある就職先を、監督に紹介しようとは思わなかったのではないでしょうか。「想う一念、岩をも通す」と言いますが、「走りたい」という一途な想いが、周囲の人たちを動かしてしまう原動力になったのでしょうね。