生産者の紹介
■八郎潟干拓と入植者
八郎潟干拓により、湖底から生まれ変わった新生の大地に村が作られることとなり、村名は全国から募集され、将来に大きな理想を躍進を込めて「大潟村」と命名されました。「大潟」の由来は、平安時代の古文書によると、かつて八郎潟は「大方」と呼ばれ、後に「大潟」に変わったと伝えられています。こうして村は1964年(昭和39)10月1日に秋田県で第69番目の自治体として名乗りを上げました。6世帯わずか14人の人口でのスタートでした。
全国各地からの入植希望者の中から選抜された入植者は、干拓の目的である「日本農業のモデルになるような生産および所得水準の高い農業経営を確率し、豊かで住みよい近代的な農村社会をつくる」ことを担ったパイオニアといえます。入植者は1966年(昭和41)に第1時入植者56名を選抜し、1年間の入植訓練後、1967年に家族と共に入村。1968年から営農を開始し、順次第2次入植者86名、第3次入植者175名、第4次入植者143名が入植しました。その後、1970年(昭和45)からはじまった米生産調整(新規開田抑制施策)にともない入植を一時中断しましたが、1974年に第5次入植者120名が入植し、国営事業での入植者は計580名となっています。また1978年には県営事業での入植者9名、合計589名の入植者が家族と共に入植しました。入植者の出身地は、北は北海道から、南は沖縄まで1都1道36県に及んでいます。