人類に歴史・文化があるように、香りにも歴史や文化があります。遠い昔から現代まで、子孫繁栄のための匂いや死骸の匂いを消すための匂い、危険を知らしたりする匂いなど、香りとは自然界には欠かすことの出来ないものです。香りは、世界中でさまざまな使われ方をしています。
  古代エジプトでは、ミイラを作る際に防腐剤として香料を利用したり、クレオパトラはバラの香水風呂に入っていたと言われています。また、皇帝ネロは、香油をたっぷり付けた鳥を宴会の席で飛ばして、部屋中に香りが満ちるようにしていたと云われています。
  日本では仏教とともに伝わったお香が進化し【香道】と呼ばれる芸道へと進化していきました。 香道で使われる香木は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などの戦国武将をはじめ、多くの武士たちや時の権力者を魅了しました。
   現代では、日本独自のきめ細やかさで進化したお香は、 香木から手軽に香りを楽しめるお線香タイプのものまで幅広く、さまざまな生活シーンで多くの人に愛され続けています。

株式会社 菊谷生進堂
代表取締役社長 菊谷勝彦


   私どもはお客様に、より安心・安全、
   便利にお取引をしていただくため日々努めております。
   これからも皆様への感謝の気持ちを忘れずに一年一年、
   丁寧な商売を続けていきたいと思います。


菊谷生進堂の歩み
昭和 12 年 初代・菊谷重雄、菊谷生進堂を創業する
昭和 20 年後半 現在の美芳香炭を作っていたメーカー『カミヤ灰』(現マイコールプロダクト)のセールス活動
当店の前から出発したそうです。

菊谷生進堂の歩み:写真1
昭和 32 年 『カミヤ灰』の招待旅行
毎年、販売店を対象に招待会が行われていた。

菊谷生進堂の歩み:写真2
昭和 33 年 写真左/大日本除虫菊こと金鳥(きんちょう)招待会にて。
弊社は金鳥の代理店でもありましたので、毎年招待会に参加させて頂いていました。
写真右/店頭風景。車はマツダのK360。タイヤが三つしかない三輪車タイプの車です。

菊谷生進堂の歩み:写真3 菊谷生進堂の歩み:写真4
昭和 40 年頃 当店の前にて。
漬け物屋さんやパン屋さんなどの古い店舗が建ち並ぶ商店街だった。
名古屋駅から一本道で通っているため昔は、市バスも通っていた。
現在は、道が狭いことから、裏通りにバスが通っている。

菊谷生進堂の歩み:写真5 菊谷生進堂の歩み:写真6 菊谷生進堂の歩み:写真7
昭和 41 年 昭和41年の店頭
菊谷生進堂の歩み:写真8
昭和 45 年頃 余談 〜名古屋嫁入り物語〜
嫁を出す家の二階から近所の人に感謝を込めて、お菓子を投げる菓子投げの様子。
一段落すると、嫁入り道具を積み込み、嫁ぎ先へ向けて引越しをします。
名古屋や東海地区ならではの光景です。

菊谷生進堂の歩み:写真9 菊谷生進堂の歩み:写真10 菊谷生進堂の歩み:写真11

昭和 56 年 故創業者夫婦(松山にて)
大正四年生まれの菊谷重雄・同七年生まれの千代
仲の良い夫婦だった。
菊谷生進堂の歩み:写真12
平成 2 年 株式会社菊谷生進堂 設立
平成 12 年 9 月 東海集中豪雨で床下浸水。店舗改装

菊谷生進堂の歩み:写真13
平成 13 年 3 月 楽天支店 オープン
https://www.rakuten.ne.jp/gold/kohgen/

楽天支店
平成 14 年〜 各地でお香講座を開催
平成 15 年 10 月 出荷スペース拡張に伴い、倉庫、出荷スペース・店舗などを改装
平成 18 年 1 月〜 中日文化センターにてお香講座開催
平成 18 年 11 月 WEB制作室を2階に増設
平成 20 年 4 月〜 金城学院大学でお香講座を毎週開催
平成 20 年 現在の店舗

菊谷生進堂の歩み:写真14
平成 23 年 クール・ジャパン戦略推進事業企業に選定
吉本メディアを活用した中国進出中国支援プロジェクトに参加させて頂きました。
椿鬼奴さんに弊社を紹介して頂きました。
平成 26 年 銀座店オープン

菊谷生進堂の歩み:写真15

  当店のある【大秋町】という地名は、昭和15年に則武町の一部から成立しました。
古くは江戸期・寛文年間(1661〜1673)までにさかのぼって大秋村と呼ばれていました。
なぜ【大秋】という名前がついたのか?というと、2つの説があります。


  鎌倉期の文和3(1354)年『熱田社領目録案』にある〈大脇郷畠拾町六段三百歩〉とはこの辺りのことで、
「大脇」がなまって「大秋」となったという説。
もう一つは、大秋十郎左衛門という人がかつてこの地に住んでいたため
大秋と呼ぶようになったという説があります。
そんな大秋町の歴史は古く、江戸時代は尾張藩の御鷹場であったといわれています。


  江戸期・寛文年間には、〈既高三三六石余、反別二十町余、家数17・人数101・馬4匹〉(*1)。
文政年間(1818〜1830)には、家数36・人数146・馬2匹〉(*2)。
明治初年の村高は、345石余があったといわれています(*3)。
また、村の東部を米野用水が南北に流れており、集落は村領の内寄りにあったそうです(*4)。


  大秋町二丁目の八幡社には、梯子獅子が古くから伝わっており、
明治のころまで盛んに行われていました。
梯子獅子というのは、高さ10 メートルほどのやぐらに三本の丸太を渡し、
その上で獅子頭をかぶった青年が勇壮に曲芸をして、
悪魔退散・災難や悪疫の除去を願うものです。

大秋八幡社は、現在も私たち町内の神社として親しまれています。
また、境内には近郷の若者たちが石を持ち上げて力比べをしたという力石があります。
現在は、表通りから一歩中に入ると細い道が複雑に入り組んでおり、
古くからの家並みが多く残っています。

  町の南部には商店が集まっており、その南部の商店街に当店があります。



*1:『寛文覚』による
*2:『徇行記』による
*3:『旧高旧領』による
*4:徳川林政史研究所蔵『大秋村絵図』による