初めての方はここからご覧いただければ幸いです。
庵主のひととなりや、熱い思いを肌で感じて戴ければと思います。

ご挨拶 / 私達の使命 / 頑固さの証明

ご挨拶

 私達が讃岐うどん作りを始めたのは今から23年前のことでした。
 私と私の義母であり、当社の会長である三井光榮と二人で、丸亀城の堀端、会長の自宅の一角で始めた小さな小さな事業でした。
 最初に小さい作業場を作った時に、保健所の担当の方が衛生検査に来られました。その折に言われたことが今でも鮮明に頭の片隅に残っています。
 「さぬきうどんの製麺業は廃業している時代ですよ。何で今ごろ始めるのですか。失敗しないうちに早く止めた方が良いですよ。」
 そうです。私達が麺作りを始めた頃は既に香川県の製麺業者は廃業している時代であったのです。
 しかし、私達は単なる製麺業を志してはいませんでした。
 麺作りは私達にとって初めての仕事でした。
 しかし、私達には麺作りに大きな使命と男子一生の人生を賭けても決して、惜しくない大きな可能性を感じていたのでした。始めるに当たって、私達は次の2つの誓いを立てました。

  1. 美味しさにかけては絶対にどこにも負けないうどんを作ろう。
  2. 添加剤等は一切使わない、安全な食品を作ろう。
                                   
 以上の誓いを23年間かたくなに守り通して来ました。

 最初、麺作りを始めた頃はまだ技術が未熟で美味しくない麺が出来た時も度々ありました。そんな時には会長を始め、麺作りをしていた人達と私はよく喧嘩になりました。麺作りをしている人達は一生懸命に麺を作ってくれていました。ところがある日、私が試食すると美味しくないのです。
 そこで、私は「このうどんは絶対に売ってはいけない。」と言いました。
 すると麺作りの担当者は「そんなに味が変わらないではないか。私達が一生懸命に作っているのに何で売ってはいけないのか。」と何度も何度も衝突しました。しかし、私が納得しなかった麺は絶対に売らせなかったのです。
 麺作りを始めてしばらくの間(1〜2年間)は本当に売れませんでした。
 売れないものですから、知り合い、親戚、友人に配ったりしました。
 ところが、3年目に入ると徐々に美味しさが知られるようになりました。
 そして3年を経過した時には生産が間に合わなくなるようになって来ました。
 最初は小さい工場で始めたものですから、何度も増築を繰り返しました。
 丸亀工場では増築の余地の無くなった頃、18年前に坂出工場を作り、本社を坂出工場に移し、現在に至っております。

 長いようで短いような23年間でしたが、この間には多くのことを経験させていただきました。
 事業が順調にいっているときばかりではなく、順調でない時も多々ありました。そして、私達が困った時には沢山の人達に助けていただきました。
 今日の私達があるのはそのような多くの恩人と、私達の商品をご支持下さっている多くのお客様のお陰です。更にはお取引先の皆様、一緒に働いている社員の協力の賜物であると思っております。
 私達は自分だけでは、絶対に一日たりとも生きていけません。
 周りの多くの人達にお世話になり、迷惑をかけて生きております。

 私達は、世の中にたいした貢献は出来ませんが、とびきり美味しくて、健康に良いさぬきうどん、らあめん等の商品を通じて私達の心を皆様に伝えることが出来れば、こんなに素晴らしいことはありません。
 そして私達のお届けする商品が単なる食品としてだけではなく、お客様の温かい心を伝える媒体になれますように念じております。

 私達は残った人生のすべてをかけて、私達の商品を磨き続けることを誓います。更にこの精神を次の世代に、更に次の世代に引き継いでいくことを誓います。
 私達はこんな素晴らしい仕事を見つけることが出来たことを大変幸せに、誇りに思っております。
 私達は私達の心がこもった商品を通じて、全国の多くのお客様ともっともっとお知り合いになりたいと願っております。
 末永いご支持、ご支援のほどどうか宜しくお願い申し上げます。
 厳しい日々が続いておりますが、どうかお体を大切にお過ごし下さい。

                                                   感謝
  平成十八年十一月吉日

          

庵主


私達の使命

 その昔、食べ物を確保することは我々の祖先にとっては、場合によっては命がけの仕事でもありました。
 十分な食べ物が無くて命を落とした祖先の人達は星の数以上でしょう。
 今の時代、私達の住んでいる恵まれた日本では、食料不足で命を落とすことはまずありませんが、世界中の多くの国々ではまだ食料不足で命を落とす人達が絶えません。
 私達日本人は余りにも食べ物が簡単に手に入る為に、食べ物の有難さ、大切さを忘れ去っています。
 私が小さい頃は終戦後で余り食料が無い時代でした。その頃、元気だった私の祖父には米粒の一粒も粗末にしてはいけない、ということを頭に叩き込まれて大きくなりました。

 私達の体の細胞は毎日毎日生まれ変わっています。新しい細胞が生まれ、古い細胞が死に、日々新陳代謝していると言われております。
 この私達の細胞、体液を作る原料は、私達が毎日口にする食べ物です。
 私達のこの指も手も、足も目も鼻もすべてが、私達が口から入れる食べ物が消化し、出来あがったものです。要するに私達の体の健康度合い、体力、気力のすべてが食べ物によって左右されます。
 このような厳粛な真実と向き合うとき、私達のように食品を志すものはこんなに貴い仕事に携わっているという事実に身を引き締めざるを得ません。
 私達の提供する食品がお客様の口に入り、お客様の健康、活力、体作りすべてに影響を及ぼす訳ですから、こんなに大切な仕事はありません。
 私達はこの事実を真剣に受け止め、まず安全な食品、健康に良い食品に取り組みます。

 私達は知っています。 美味しいものを食べると幸せになれることを。 食品の中でも特にうどんの美味しさは日本人であれば誰でも知っています。
 ただ硬いのではなく、柔らかくて粘り強く、透明感がありイカの刺身のようなうどんを私達は目指しています。
 私が幼い頃、近くに手打ちうどんを作っている小さい製麺所がありました。
 亡くなったじいさんに連れられてよくうどん玉を買いに行っていました。
 うどん生地をござの間に挟んで足で踏み固め、麺棒で延ばし、包丁で切り、大きな五右衛門風呂のような茹で釜で茹で上げます。
 茹で上がったうどんを水洗いして、丼に入れ、生醤油をかけて食べたうどんの味は忘れられません。
 しっかりとした歯ごたえがあり、なんとも言えない塩味があり、懐かしい思い出です。

 しかし、物心ついてからはどこのうどん屋さんに行っても二度とあの味に巡り合えることはありませんでした。
 私達も麺作りを始めてからもなかなかその味に到達することは出来ませんでした。小麦粉もあらゆる品種を確かめました。水をほとんどの水を試しました。
 塩もあらゆる天然塩を試しました。
 ところが、一向にその味は再現出来ませんでした。
 しかし、ある時鳴門の海水を汲んで来てうどん作りを試みました。
 すると、あの捜し求めていたうどんにほとんど近いうどんが再現出来たではありませんか。これにはビックリしました。
 なぜ、こんなに大きな差があるのだろうと不思議に思い成分分析をしてみると、私達が今まで使用していたJTの塩も天然塩として売られている塩も、海水とは全然成分が違っていました。
 それから私達は自分でうどんに最も適した海水と同じ成分の塩を作り始めました。それを使ってうどんを作ると海水同様素晴らしいうどんが出来ました。
 更に、スーパーからアサリを買って来て、どの塩でアサリが最も長時間生存するかを調べてみた結果、私達が作った塩では海水と同じ1週間生きましたが、他の塩ではその半分程度の生存期間でした。
 私達はこの塩を地球の誕生に因んで『自然海塩46億年』と命名しました。
 このようにしてやっと私は小さい頃の思い出の味を再現することが出来ました。

 私達の商品は多くのお客様によってご自分で召し上がられるだけではなく、ご友人、ご家族、お知り合いへの贈り物に使われていることを知っています。
 食べ物は昔より贈り物としてよく使われて来ました。
 珍しい山海の珍味が遠く離れた地方の人達に贈られていたことは歴史によく出てきます。
 私達のお届けする商品の感動する美味しさが贈り手の心を伝え、更に単なる美味しいだけではなく、私達の行っているすべてのサービスが贈る方の心を代弁出来れば、こんなに素晴らしいことは無いと思っております。
 まだまだサービス面では至りませんが、日々このような心で取り組ませていただいております。
 どうか皆様の生活の一部として無くてはならない存在になれますように一生懸命に精進させていただきます。
 まだまだ至らない点が多々あると思いますが、どうか私達はそのような心で皆様のお役に立ちたいと心より願っております。
 もし、至らない点、お気づきの点がありましたら、ご遠慮なくご指摘をいただきたい、叱っていただきたいと思っております。

                                                多謝
 平成十二年七月吉日                               庵主 藤井 薫    


頑固さの証明

 ここでは、ちょこっと管理人から・・・
 庵主の頑固さを証明する事件が起きました。
 その事件とは、JR坂出駅(地元香川県坂出市)に
 新しくうどん店を出店したその日に起こりました。

 特殊なオープンでして、駅がリニューアルしまして、
 5店舗が同時にオープンしました。
 このオープン当日は、長蛇の列でした。

 ところが、あまりのフル回転で納得のいく麺が
 出せなくなったと判断するや、まだ夕方にも
 関わらず、すぐさま店を閉めてしまいました。
 当然、かき入れ時でした。

 2000年11月の出来事でした。
 3日後の読売新聞(地方版)でその頑固さが
 紹介されました。(笑)

 私たちは庵主の頑固さを誇りに思っています。


    片原@管理人



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