心斎橋みや竹 我が再生の記

心斎橋みや竹 kasaya.com 我が再生の記 【第二話】崖っぷち
傘屋の和ちゃん、我が再生の記「そして老舗は甦った・・・」

- 第 2 話 - 崖っぷち






 私が店の手伝い始めたのは
大学を中退した20歳の頃だが、

    【こんなに儲かっていいのか?!!】というくらいに

右から左へとお金が目の前を通り過ぎて行った。

23歳のときには好きな音楽(ロック・アーティスト)で
食べていくことを諦め、
正式に社員になった。 

従業員も数名雇い、
メーカーの営業マンが研修を兼ねて販売員を担当することもあり、
20名ほどの人数で接客をしたこともあった。


大げさな話でなく

みや竹さんのところで修行してこい、
そうすれば勉強になる、という評価が
近畿地区の傘メーカーにはあったのだ。

老舗ゆえに、近くの中座で歌舞伎の公演があるときなど、
歌舞伎俳優の方に進物用に買っていただきお届けしたことも度々であった。 

この頃の私が、お客さまのことを思い
まっとうに商売をしてさえいれば大丈夫!
そう信じて疑わなかったのも無理はないと思う。


最盛期は昭和50年前後であっただろうか。
傘屋として月商3000万円近くまでいったのもこの時期だ。


  あとはバブルが弾ける寸前の花博の頃を最後に、
  真綿で首を絞られるように下降していった。

  阪神大震災のダメージも大きかった。
  お得意様も、ひょっとして亡くなられたのか
  数人の方がそれ以後見えなくなった。 


だが、本質的な問題はバブルでもなんでもない。


  ひとことで言うならオーバーストアの時代に
  生き残れなくなったということだ。 

  それはうちの店が、ということではない。
  "心斎橋筋商店街"に魅力がなくなったということだと思う。


傘ばかりでなく、心斎橋筋商店街に来なければ買えないものなど、
何もなくなってしまったのだ。

もちろん、いまも心斎橋は活気に溢れている。
しかし、老舗は次々と姿を消し、
パチンコ屋やゲームセンター、ファーストフード店に取って代わられた。


  なにしろ傘屋として残っていたのは
  うちが最後だったのだ。 
  心斎橋はいわば自然発生的に生まれた商店街である。


最初から目的があり、つくられた商店街ならば、
意思統一も図れるが、

みな自分ののれんを守ることが第一で、
なかなかもとまりが出ない。


      付近の商店エリアは新しい命をふきこまれているのに

  本家の心斎橋筋だけは
  歴史があるゆえに、昔の体質を脱皮することが
  できずにいた。だからみるみる差がついていったのだ

  古いショッピング街が衰退していく典型であったのかもしれない・・・

  いや商店街ではなく、街で「〜やさん」と呼ぶことのできる
  老舗・専門店が衰退していく典型とよみかえるべきかもしれない・・・


いよいよ私の店は
窮地にたたされた

        まさに崖っぷちである

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
あえぐ「みや竹」の人々、果たして老舗がとった運命の決断とは?まて次号
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞




NEXT



我が再生の記トップ | 第1話 | 第2話 | 第3話 | 第4話 | 第5話 | 第6話 | 第7話 | 最終回

心斎橋みや竹 我が再生の記