大阪・心斎橋筋商店街__。
老舗が軒を並べ、伝統が息づく一方で、
阪神タイガースがたとえ一日でも首位に立てば、
目と鼻の先の道頓堀川に
虎キチの若者がダイビングする。
そんな活気のある街である。
老舗の多い心斎橋筋でも、
創業100年を超える店となると
数えるほどだ。
その少ない一つが『心斎橋みや竹』であった。
あった、としか言えない。
私が店を構えていた64坪の店舗は、
現在アウトレットの店になっているからだ。
いまも店の権利を譲る書類に、判を押したときのことが忘れられない。
この判を押せばすべてを失う......。
その思いが頭をよぎり、印鑑を持つ手はぶるぶると震え、
喉は焼けるように乾いた。
曽祖父の時代から数えて100年の歴史がこれで終わるのだ。
心斎橋から離れることが、私に初めて現実感をもって迫ってきた。
そして、ままよと判を押したとき、たしかに終わったという実感があった。
店を実際にたたんだのは、それから半年経った1997年の1月であったが...
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モボ・モガにアピールして大繁盛
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私の曽祖父は単身、海を越え、アメリカへ渡った__。
まだ明治半ばの頃の話だ。いまなら飛行機に乗ればすぐだが、
当時は命がけの大冒険であったろう。
アメリカで、雑貨事情をつぶさに見てきた曽祖父は
これは日本でも売れると確信し、
帰ってくると心斎橋筋で舶来雑貨の店を始めた。
それが明治29年(1896年)、『心斎橋みや竹』のルーツである。
いわゆる"傘屋"になったのは大正に入ってからのことだ。
モボ・モガという言葉が流行語になり、
ハイカラに着飾った人たちが街を闊歩をしていた。
曽祖父の跡を継いだ祖父はそこに目をつけ、
洋傘とショールの店に替え、大繁盛した。
洋傘とショールは若い女性たちの必須アイテムであった。
最盛期には心斎橋だけで十数軒の傘屋があった。
時は移り、父の代になった。多少の浮き沈みはあっても、
戦災で焼け野原になったときを除けば
店が危機を迎えたことはなかった。
父は心斎橋商店街の振興会で旗振り役を務めており
実際の店の切り盛りは母がしていた
昭和33年、私が四代目として生まれた
なにわの一等地、心斎橋の繁昌店。おりからの好景気
『みや竹』のすべての人々が
暖かさと豊かさと自信と戎顔に満ち溢れていた…
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順風だった『心斎橋みや竹』に、この後待ちうけていた決定的悲運とは…
なぜ老舗は坂を転げ落ちるように失墜していったのか?まて流転の次号
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