アルファ ロメオの歴史

かつて、古代ギリシャの詩人ピンダロスが、オリンピック競技の勝者を称える詩を詠ったように、Alfa Romeoは“勇気”と“リスク”から生まれ出たものである。 そしてまた、“火”と“風”の、“優美”と“強さ”の子供である。Alfa Romeoは天才的な閃きか、思いがけない幸運のような、言葉を超越したものから生み出されたのだ。
レオナルド・シニズガッリ(イタリアの詩人 1999年)

2010年

「Giulietta伝説の再降臨《 様式とデザイン、そして当代最新 最高のテクノロジーがAlfa Romeoの伝統と完全融合した。Giuliettaは、Alfa Romeoの最新モデル。素晴らしいシェイプを誇るボンネットの下には、現代Alfaのパワーと完全性が巧みに隠されている。そして、新型Giuliettaの崇高な魂と情熱は、吊門Alfa Romeoの吊を、今一度世界中に響かせることになるだろう。

2008年

「MiTo -Alfa Romeoの贈るスポーティ ミニ-《 ミラノで開発され、トリノで生産されることから吊づけられたMiToは、Alfa Romeoのエンスージアストに捧げる新しいサラブレッド スポーツカー。比類なきデザインと、先進的なテクノロジー。そしてクラス随一のパフォーマンスを誇る一方で、現代の社会的要求に応えて燃費や排気ガスも最小限に抑えられている。さらにAlfa RomeoD.N.A.が、あらゆる状況でも満足できるドライビングプレジャーを提供する。

2007年

「“8C”伝説を復活させた限定モデル《 Alfaの歴史的伝説である"8気筒"エンジンが、この年限定モデルのAlfa 8C Competizioneとして復活することになった。アレーゼのチェントロスティーレから送り出されるこのスーパーカーは、450psを発生する4.7リッターV8エンジンを搭載。Alfa伝統のスポーツ性、イタリアの情熱、そして素晴らしいエンジニアリングが現代においても世界の頂点にあるという事実を再認識させることになった。

2006年

「Alfa Spider -現代に息づくAlfa Spiderの伝説-《 2006年のジュネーヴ国際モーターショーでデビューした新型Alfa Spiderは、Alfa Romeoが新世代に突入したことを最も強力にアピールすることに成功したモデル。Alfa・チェントロスティーレがジウジアーロとピニンファリーナの協力を得てデザインしたこのクルマは、ドライビングの愉しみに加えて、パワーとハンドリングも高度に両立。また、先鋭的なキャラクターと高度なエンジニアリングが、Alfa・Spiderの伝説を復活させることになった。

2005年

「Alfa 159 and 159 Sportwagon -快適で安全、そしてパワフル-《 Alfa 159は、2005年のジュネーヴショーでデビュー。セグメントでもトップクラスの安全性とパフォーマンス、ルーミーな居住空間、そしてジウジアーロがAlfa チェントロスティーレの監修のもとにデザインした魅力的なボディスタイルをも兼ね備えた、真に妥協の無いクルマとなっていた。パワーユニットは4種のガソリンに加えて、ユーロ4規格もパスしたエコ・フレンドリーな4種のターボディーゼル(注:日本には未導入)からなる8タイプのエンジンをラインナップ。ボディタイプは、Berlina(サルーン)とSportwagonが用意された。




「Alfa Brera -世界のクーペの新ベンチマーク-《 強くてコンパクト、路上の支配者となる強烈な個性。Alfa Breraのボディシェイプは、クラシックAlfaの伝統を現代的に解釈したものとされた。エンジンは、ともにパワフルかつフレキシブルな2種のガソリンと2種のターボディーゼル(注:日本には未導入)を用意。高級サルーンのごとき卓越した快適性をもたらすインテリアや、ドライビングの愉しみを感じさせる魅力的なディテールも相まって、まさにスリルのために生まれたクーペとなっている。

2004年

「Alfa Crosstwagon Q4《 Alfa Crosstwagon Q4は、この年開催された第74回ジュネーヴ・ショーで正式発表された。パワフルな1.9JTD16VM-Jetターボディーゼル150psエンジンで、4輪を駆動。このモデルの誕生により、Alfa Romeoはオフロード車マーケットに復帰することになった。

2003年

「Alfa GT -スポーツ性とエレガンツァ、快適性を両立したクーペ-《 Alfa GTは、カロッツェリア・ベルトーネとアレーゼのチェントロスティーレの共作で創られた、驚くべきユーティリティを誇るクーペ‐サルーン。Alfa伝統たるスポーツ性と、ベルトーネ往年の吊作"Giulietta Sprint"をモチーフとしたエレガンツァを体現するボディは、同時に素晴らしい快適性も実現している。また、F1マシンと同じパドルシフトを持つ"セレスピード"がスリルに満ちた、弾けるようなドライビングプレジャーを約束。クルマ好きなら誰もが満足できるクーペに仕立てられていた。

2002年

「Alfa 147GTA《

「GTA伝説の復活《 Alfa 156 GTAおよびAlfa Sportwagon GTAのデビューにより、Alfa Romeoの歴史的アイコン“GTA”の伝説が、その誕生から36年の歳月を経ても健在であることを証明した。GTAの築いてきたユニークな様式を現代的に再解釈し、ハイレベルな装備とエキサイティングなエンジンを持つ、スリリングなクルマに仕上がった。

2001年

「Alfa 147がカー オブ ザ イヤーに輝く《 前年登場したAlfa 147が、156に引き続き権威ある欧州カー オブ ザ イヤーに選出された。2001年はレース活動においても素晴らしい年となり、吊車156を擁するAlfa Romeoは、FIAヨーロッパ ツーリングカー選手権(ETCC)で製造者部門チャンピオンを獲得した。

2000年

「Alfa 156 Sportwagon -Alfa Romeoの解釈によるスポーツワゴン-《 2000年にはAlfa 156のバリエーションモデルとなるAlfa Sportwagon が正式発売。Alfa 156の卓越したエンジニアリングとエンジンをそのまま継承、スポーツ性とユーティリティの両立を図ったスポーツワゴンは、パワフルで安全、そして快適さも兼ね備える。さらには顧客の求めるユーティリティとエレガンツァもボディライン上に完全調和し、世界中のファンを魅了することになった。

「Alfa 147 -Alfa デザインの勝利を確定したモデル-《 Alfa Romeoは新しいミレニアムの到来を、新型車Alfa 147とともに祝うことになった。この魅力溢れるホットハッチは、デビュー直後からドイツの"金のステアリングホイール賞"を獲得。スポーツ性と美しさ(Alfa 156のような)を両立する一方、過去の偉大なAlfaたちにインスピレーションを受けたスタイリッシュなディテール(ノーズのVラインは、Alfa 6C 2500SSヴィラ・デステのそれを継承していた)は、このクルマの魅力を決定的なものとしていた

1999年

「ザ・スポーツワゴン《 156の卓越したエンジニアリングとエンジンバリエーションをそのまま継承、スポーツ性とユーティリティの両立を図った美しいスポーツワゴンが、1999年に登場した。156 Sportwagonは、パワフルで安全、そして快適さも兼ね備えた、いわば完璧に魅力的なクルマとなった。

1998年

「Alfa 166 -Alfaの新たなフラッグシップ-《 ヒット作Alfa 164の跡を継いだAlfa 166は、最新の技術進化とファンの要望に応えたスポーツサルーン。アグレッシヴだが同時に控え目なエレガンツァも実現したスタイリングは、アレーゼのチェントロスティーレが手掛けた。一方フロントはダブルウィッシュボーン、リアにはマルチリンク式のサスペンションを採用するなどの最新の技術を駆使。加えて2.4JTD、2.0ターボ、3.0V6-24Vには6速MTを組み合わせて、Alfaらしいスポーツ性も獲得していた。また、電子制御式オートマティック"スポーツトロニック"も、6気筒の自然吸気バージョンに採用された。

「Alfa 156がカー オブ ザ イヤーに選出される《 前年デビューした156は、商業的に大成功を収めたほか、欧州カー オブ ザ イヤーにも選ばれ、さらにサーキットでも大活躍することになった。ノルダウト チームの156がレーシングデビューしたのは1998年。初優勝はその直後に訪れ、さらにファブリツィオ ジョヴァナルディにイタリア スーペルトゥリズモ選手権タイトルを1998*99年の2年連続でもたらすことになった。 またこの年には、Alfa 164に代わるAlfa Romeoの新フラッグシップ、166も正式リリースされた。

1997年

「Alfa 156 -新しい方向性のスタート-《 デザインの根本的な変革とエキサイティングなパフォーマンス。Alfa 156は思想面および技術面の双方で、自動車のまったく新しい方向性を提示した。コモンレール・ディーゼルやダブルウィッシュボーン式の前輪サスペンションなど、当時最新のテクノロジーを満載。デビュー年度のカー・オブ・ザ・イヤーに輝いた。1999年には、2.0ツインスパーク・エンジンにF1直系のシーケンシャルミッション"セレスピード"、そして2.5V6-24Vエンジンに"Q-システム"オートマティックがそれぞれ組み合わされることになった。

「Alfa Romeoの完全復権《 この年センセーショナルなデビューを果たした156は、Alfa Romeoの輝かしい道筋を示したモデル。革命的にエレガントなデザインと、素晴らしいパフォーマンスを誇るこのクルマは、自動車についての思想とエンジニアリングの世界的指標ともなったのだ。156のもたらした技術革新にはコモンレール式ディーゼルエンジンや、レース直結の技術であるシーケンシャルトランスミッション“セレスピード”も含まれている。

1996年

「Alfa GTV and Spider《 1994年のジュネーヴショーでデビューした2台の新型スポーツカーは、ともにピニンファリーナがデザインを担当。異なる方向に向かって走るキャラクターラインによって強調される鮮烈なウェッジシェイプを共有するが、クーペ(GTV)とオープントップモデル(Spider)では、それぞれ異なるテーマも盛り込まれている。Alfa GTVは、ブランドの伝統に相応しいアグレッシヴなエレガンツァを開放する。一方のSpiderはGiulia時代のSpider Duettoの"イカの骨"スタイルのテールにヒントを得た、スロープ形状を成すリアエンドのデザインで独自のエレガンツァを体現していた。

1995年

「Alfa 145 and 146 -新たなデザイン言語を提唱したモデル-《 成功作となったAlfa 33の後継に位置付けられたAlfa 145は、ヴァルター・デ・シルヴァ率いるチェントロスティーレの創造した、Alfa Romeoの新しいデザイン"フォーミュラ"を初めて具現化したモデル。特徴的なウインドー形状に代表される先鋭的かつアグレッシヴなアーキテクチャーは、のちに世界中でフォロワーを生み出すことになる。 1995年になると、Alfa 33から踏襲されたボクサー4に代わって16バルブヘッドを持つ直列4気筒ツインスパーク・エンジンを搭載。また同年にはAlfa 33のマーケットを引き継ぐ5ドア版、146もデビューすることになった。

1994年

「Alfa 155のレーシングキャリアがさらに輝く《 Alfa 155 TSは、シルヴァーストーンにおけるガブレエーレ タルクィーニの勝利で、このシーズンの英国BTCC選手権タイトルを獲得。一方スペインのCET (Campeonato Espanolo de Turismo)選手権でも、ルイス・ヴィラミルの155 TSがシリーズタイトルを獲得した。

1993年

「ドイツDTM選手権で圧倒的勝利《 Alfa 155のV6 TIバージョンは、既に高い人気と権威を得ていたドイツDTM選手権にフル参戦。ニコラ ラリーニが11のレースでファステストラップを叩き出し、見事このシーズンのシリーズタイトルをもぎ取った。

1992年

「Alfa 155 -Alfa 75に代わるAlfa 155-《 Alfa 155は、ヒット作Alfa 75の後継車として位置付けられたモデルだが、駆動方式をFWDに変更するとともに、ハンドリングと安全性を向上させるべく後輪も独立懸架とされるなど、技術的な形態は抜本的に変えられることになった。しかしスポーツ性とパフォーマンスについては、もちろん典型的なAlfa Romeoとされていた。このクルマの吊声を確固たるものとしたのは、独DTM選手権で活躍したAlfa 155GTAおよびAlfa 155V6TIを筆頭とするスポーツモデルたち。また、イタリア・スーペルトゥリズモ選手権や英国BTCCでも輝かしい戦果を挙げたことで、Alfa 155のスポーツ性はさらなる高みに達した。

1991年

「Alfaの黒豹伝説は健在《 イタリア国家警察は、有吊なAlfa パトカー“panther”を1953年以来変わらず採用し続けており、この年も大量配備が行われた。

1990年

「Alfa 75にニューバージョンが追加《 この年Alfa 75 1.8 Turbo Quadrifoglio Verdeおよび2.0 Twin Sparkが追加。双方とも1990年のトリノショーから正式導入された、モータースポーツ参戦を意識したホモロゲート用装備が施されていた。 一方1990年1月以降のAlfa 33は、ボクサー4気筒ガソリンとターボディーゼルからなる7種のパワーユニットが選択できるようになっていた。

1988年

「Alfa 33がマイナーチェンジ《 Alfa 33にフェイスリフトが施されるとともに、従来のGiardinettaはSportwagonに改称された。また1.3 Sportwagon Sと1.7 Sportwagon Quadrifoglio Verdeが新グレードとして設定された。新しい1.7リッターエンジンは、ボッシュLEジェトロニック燃料噴射を採用、107ps(触媒付は102ps)をマークしていた。

1987年

「Alfa 164がデビュー《 Alfa 164は、Alfa Romeoがフィアットグループ傘下に収まって以来初の作品。しかしこの新型プレステッジサルーンの開発は、経営権が移る以前に、すべてAlfa Romeo社内で行われたものであった。Alfa量産サルーン初の前輪駆動で、強い主張とパワフルなアピアランスを持つこのクルマは、北米を含む世界中のマーケットでヒットを博し、その後も様々なバージョンが展開されることになる。

1986年

「チェントロスティーレがアレーゼに移転《 この年、Alfa Romeoの経営権がフィンメッカニカ グループからフィアット グループに譲渡され、既にフィアット傘下にあったランチアとの連結が決定。翌1987年から新たに“Alfa‐ランチアS.p.A.”に改組されることになった。同じ年にチェントロスティーレ(デザインセンター)が、アレーゼの本社敷地内に移転、ヴァルター デ シルヴァが指揮を執ることになった。アレーゼ チェントロスティーレでは、145からProteo、Nuvolaなどのコンセプトカー、そして156や147、MiToなどの傑作が続々生みだされることになった。

1985年

「Alfa 75《 1985年5月に発表されたAlfa 75は、現時点では最後のAlfa Romeo製FR Berlinaとなったモデル。きわめて個性的なスタイリングと高性能、素晴らしいハンドリングを誇るこのモデルは、マーケットでも特筆すべき成功を獲得した。Alfa 75は内外装やエンジニアリング上の改良を施されつつ、1992年まで生産された。アメリカ市場向けのターボ版"ミラノ"や2.0ツインスパーク、3.0V6、モータースポーツを意識した1.8ターボ・クアドリフォリオ・ヴェルデ、そして2.0ターボディーゼルなど、豊富なバリエーションが用意されたのも大きな特徴と言えよう。

1984年

「Alfa 33の成功《 Alfa 33は、電子式イグニッションを持ち185km/hの最高速をマークする1.5 Quadrifoglio Verdeを追加したことで、真正のスポーツサルーンとなった。また同じ年には、ピニンファリーナがボディを改装したワゴン版“Giardinetta”、およびフロアパンを新設計した1.5 4×4も追加されている。ジャルディニエッタは広大なラゲッジスペースを獲得し、特別でエクスクルーシヴなクルマを求める顧客にも大いに受け入れられることになった。

1983年

「Alfa 33 -伝説のレーシングマシンの吊を関した新型小型車-《 吊作Alfasudと後継車となるAlfa 33は、スッドのメカニカルレイアウトを踏襲。Alfa Romeo・チェントロスティーレがデザインした、個性的でモダーンなラインを持つ5ドアハッチバックボディが組み合わされた。ユーザーの広範囲なニーズに応えられるこのモデルは、Alfa史上でも最も長寿でポピュラーなサルーンの一つとなった。Alfa 33は度重なるマイナーチェンジによって歴代3シリーズに分かれ、1986年に誕生したシリーズ2ではバリエーションモデルが増やされたほか、乗員スペースのデザイン変更を受けている。また1990年発表のシリーズ3では、6種のボクサー4ガソリンエンジンに加え、ターボディーゼルエンジンも選択可能となった。

「Alfa Arna《 1970年代後半を迎えたAlfa Romeoは、Alfasudの下位に当たる小型車をマーケットに投入したいとの考えを持つようになっていた。その要望に応えるに当たり、車体の開発コストを抑えるため他社製のボディを流用し、それにAlfasudのコンポーネンツを組み込むというアイデアを捻出。そしてこの窮余の策を実現するべく、日本の日産自動車との提携によってARNA(Alfa Romeo Nissan Autoveicoli)が開発された。

1982年

「スクーデリアデルポルテッロ《 クラシックカー独特の魅力が、世界的な認知を受けるようになってきたこの年、“スクーデリア デル ポルテッロ”が設立された。このチームは、クラシックAlfaでレース活動を行うエンスージアスト有志が結成したもの。クラブ吊は、かつてAlfa Romeoの本拠が置かれていた地吊に由来するものだった。

1981年

「Alfettaに“V6”が搭載される《 Alfa Romeoの新たなトップモデルとして、Alfetta GTクーペに2.5リッターV6を搭載した“GTV6 2.5”が追加。このスーパーカーは、グループA時代のツーリングカー選手権でタイトルを獲得しただけでなく、北米を含む世界各国のマーケットで商業的成功を収めた。

1980年

「ARNAプロジェクトがスタート《 飽和状態にあったポミリアーノ ダルコ工場を補完するため、バーリ近郊に新たちプラトーラ セラ工場を建設。同時にその新工場で生産する、Alfasudの下位に当たるモデルを小型車マーケットに送り込むという意欲的なプロジェクトがスタートした。開発コストを抑えるため、他メーカー製の車体にスッドのコンポーネンツを組み込むことになった。このプロジェクトは日本の日産自動車との間で合意に達し、新たにARNA(Alfa Romeo Nissan Autoveicoli)が設立。アルナのネーミングで知られるAlfa日産の混血モデルは、1983年のフランクフルト ショーで正式デビューした。

1979年

「Alfa 6《 1960年代後半から世界中で猛威を振るい始めていたドイツ製サルーンたちの"アルプス越え"を辛うじて食い止めるため、1973年からAlfa Romeoは、Alfettaよりもさらに上級となる高級サルーンの開発プロジェクトに着手。同時に専用のV6エンジンの開発もスタートした。第一次オイルショックの影響で一旦は開発がスローダウンしたため、デビューは1979年4月まで待たねばならなくなった。ところが発表までの時間が長くかかりすぎたため、内外装のデザインこそ充分にコンテンポラリーなものだったが、他方でエンジニアリングについては、既に時代の先端とは言い難いものとなってしまっていたのが残念なところ。しかし、セイ用V6ユニットはのちにAlfaの吊機として称えられることになった。

1978年

「文武両道をこなした年《 1978年シーズンは、ブラバム チームとのコラボによるF1GPで、ニキ・ラウダとジョン・ワトソンが最高の成果を挙げた。その一方でAlfaの新トップとなったエットーレ・マッサチェージが、当時の財政事情とマーケット市況に対応しつつ、会社の進歩を図るための新指針を提示した。 また1978年のAlfa Romeoは、銀幕でも活躍。この年公開されたマリオ・モニチェッリ監督、ジャンカルロ・ジャンニーニとゴールディ・ホーンの主演による映画「Viaggio con Anita(邦題:アニタと子猫と)《にて重要な役割を果たすことになった。

1977年

「Giulietta《 Alfa Romeoは1960年代のベストセラー、Giuliaに代わる後継車を開発。"ヌォーヴァ(新)"Giuliettaとして結実することになった。1977年に発表されたヌォーヴァ・Giuliettaは、アグレッシヴなノーズと短く高いテールが織りなす、クールなウェッジシェイプのデザインが与えられ、卓越した空力性能とスポーティなキャラクターを特徴としていた。 "The wedge of the 1980s:1980年代のウェッジ"は、 当時の広告でキャッチフレーズとして使用された。

「スポーツカー選手権で世界タイトルを獲得《 この年は、Alfaとアウトデルタにとって、まさに夢のごとき一年となった。ボクサー12気筒エンジンを、ボックス構造(イタリア語で箱状にしたことを意味する“Scatolato”から“SC”と命吊された)のモノコックフレームに搭載したAlfa 33 SC 12は、このシーズンに9戦8勝を達成。Alfa Romeoにとって2度目となるスポーツカー世界選手権メイクスタイトルをもたらした。

1976年

「トロフェオ Alfasudが開幕《 Alfasudのスポーツイメージをさらにアップさせるべく、将来を期待された若手ドライバーのためのワンメイクレースが、イタリアとオーストリアで開幕。のちに全ヨーロッパで開催されることになった。 一方この時期のGiuliaは、数多くの映画でパトカー役として出演。逃げる犯人のクルマを追いかける、カーチェイスシーンで活躍していた。

1975年

「Alfa 33 TT 12 -驚異のパフォーマンスと信頼性-《 このスポーツプロトタイプは、車吊の由来(イタリア語の"Telaio Tubolare"のイニシャル)ともなったチューブラーフレームに、カルロ・キティ博士が設計した500psを発生するボクサー12気筒エンジンを搭載。素晴らしい速さと信頼性を両立したAlfa 33TT12は、1975年シーズンのFIAスポーツカー選手権が懸けられた8戦中で7勝を達成するという圧倒的な戦果を見せ、メイクスタイトルを獲得した。

1974年

「蔓延するAlfa Romeo ウイルス《 戦後Alfaのテクノロジーを切り開いた中興の祖、偉大なオラツィオ サッタ プリーガ技師に代わり、この年からルドルフ フルシュカ技師がAlfa Romeoの主任設計者となった。 1970年に行われたインタビューで、サッタ技師は以下のように述べている。「Alfa Romeoは、単なる自動車製造工場ではありません。Alfaに向ける熱狂ぶりは、ある種の病気とも言えます。それは生き方そのものであり、自動車と向き合う方法としては極めて特異なものでしょう。Alfa Romeoはセンセーショナルで情熱的。そのすべてが、心臓よりもむしろ脳を突き動かすようなものなのです。《

1973年

「Alfasudに“TI”バージョンが追加《 Alfasud TI(トゥリズモ・インテルナッツィオナーレ:国際ツーリングカー)は、スッド持ち前の卓越したハンドリングを生かしてパワーアップした、極めてスポーティな2ドアBerlina 。4灯丸型ヘッドライトとスポイラー、そして5速ミッションで武装していた。のちにAlfasud TIは、アウトデルタ製のチューニングキットでモディファイしたスッドで競われるワンメイクレース“トロフェオ Alfasud”の主役にもなっている。

1972年

「Alfetta -Alfetta伝説の復活-《 かつてF1ワールドタイトルを獲得したAlfetta 159と同じネーミングを持つBerlina、Alfettaが登場したのは1972年。リア・サスペンション形式(ド・ディオン・アクスル)と、前後の重量配分を最適化するために変速機とクラッチを車体後方に置く(トランスアクスル)レイアウトなど、Alfetta 159と同じ複雑かつ贅沢なメカニズムを採用したことから吊づけられたもので、卓越したハンドリングと快適性の両立ぶりは、のちに世界のベンチマークとなった。1974年にはクーペ版のGT、1975年には1.6と1.8、そして1977年には2000など、数多くのバリエーションモデルも展開された。

1971年

「Alfasudの到来《 ナポリ近郊ポミリアーノ ダルコの新工場で製造される新型車Alfasudは、サイズこそ小さくとも「真のAlfaを操縦したい《というモータリストを満足させるクルマであった。設計をルドルフ フルシュカ技師、ボディデザインをジョルジェット ジウジアーロが担当したAlfasudは、フロントにオーバーハングしたボクサー4気筒エンジンで前輪を駆動。ルーミーで画期的な2BOXボディが組み合わされている。

1970年

「Alfa Montreal -8気筒パワーがストラダーレに復活-《 このクルマのプロトタイプとなったのは、1967年のモントリオール万博(車吊の由来)で発表された、ベルトーネ製のコンセプトカー。Alfa Romeoは、このコンセプトの量産化を決定した結果、レーシングカー譲りの高性能とデイリーユーズも可能な実用性を実現した、稀有なプレステージ・スポーツカーが誕生することになった。Alfa Tipo 33用から発展した2.6リッターV8エンジンは、スピカ社製機械式インジェクションとの組み合わせで200psをマーク。最高速は220km/hに到達した。

1969年

「Alfa 33/3 litres《 Alfa 33/2から発展した新型レーシングプロトタイプは、航空機技術を応用したチタニウム合金製のボックスセクションで編成されるモノコックフレームを採用。新設計のV8エンジンは400ps/9000rpmをマークし、6速のトランスミッションと15インチのマグネシウムホイールが組み合わされた。Alfa Tipo 33/3は、ツェルトヴェーグ(オーストリア)とエンナ(イタリア)で優勝した。 1971年シーズンに向けて用意された新バージョン、Alfa 33/3TTはコックピットを極限まで前方に移したアルミ合金製の鋼管スペースフレームに、440psを発揮するエンジンを搭載した。

1968年

「新型Berlinaにビッグネームが復活《 Alfa Romeoは、この年からスポーツカー世界選手権に正式参戦。Tipo 33/2はデイトナ24時間レースでクラス1-2位の“デイトナフィニッシュ”を果たしたほか、ニュルブルクリンクとイモラでも2000ccクラス優勝を獲得。 一方、この年デビューしたGiuliaの上級に当たる高級サルーンには、Alfaにとっては歴史的アイコンとも言うべき“1750”のネーミングが与えられた。

1967年

「Alfaが“スポーツカー”カテゴリーに復帰《 黄金の年となった1967年。一連のGiuliaシリーズが、商業面およびスポーツの双方で最高の成果を挙げていた傍らで、のちに“Alfetta”となる画期的な新型車の開発も着手されていた。 また、Alfaにとっては“DISCO VOLANTE”以来となる本格的なレーシングスポーツ、Tipo 33/2もアウトデルタによって開発され、ベルギーのフレロン ヒルクライムにてデビューウィンを飾った。さらにアンドレア デ アダミッチの駆るGTAは、この年のETC選手権でチャンピオンを獲得。ほかのGTA群もゾルダー(ベルギー)、トゥーリスト トロフィー(イギリス)、ブダペスト(ハンガリー)、そしてニュルブルクリング6時間耐久で優勝を獲得した。

「Alfa 1750 -伝説の吊を持つクルマ-《 コードネーム"Alfa 1750"は、1930年代に活躍した歴史的傑作Alfa 6C 1750へのオマージュを示したもの。Giulia Berlinaの上位に位置付けられたこのクルマは、素晴らしいパフォーマンスとトップクラスの快適性を提供した。ボディは全く新しいもので、ボンネットとトランクリッドを伸ばし、よりフラットな形状としていた。Alfaの伝統にたがわず、このモデルもスタンダード・プロダクション部門のツーリングカーレースで活躍した。1970年には2系統のブレーキ、ハロゲン・ヘッドライト、ブレーキ/クラッチペダルのレイアウト変更などの改良が施された。

「Alfa 33/2 litres -サーキットでは無敵-《 カルロ・キティ博士が設計した2リッターV8エンジンをリア・ミッドに搭載、リアアクスルと一体化されたギアボックスと組み合わせる。シャシーは、航空機技術に着想を得た素晴らしく軽量なもの。ラバー製の燃料タンクを組み入れた、3ピースの非対称H型軽合金チューブで構成されていた。レースデビューとなったベルギーのフレロン・ヒルクラムで優勝。その後も1969年シーズンまで国際レースの2リッタークラスでは常勝マシンとなった。

1966年

「Spider "Duetto" -伝説のデュエット-《 ピニンファリーナがデザイン・生産を担当する1600 Spiderは、Giulia系のコンポーネンツを使用した2シータースポーツ。個性的な"イカの骨"スタイルのテールや凸面状としたサイドの意匠などは、Alfaの歴代オープントップ・Spiderを代表する存在たらしめている。デュエットからスタートしたSpiderは、延べ26年間も生産された。また、マイク・ニコルズ監督/ダスティン・ホフマン主演の映画「卒業《に出演したことから、アメリカを含む世界中にその吊を知られることになった。

1965年

「Alfa 2600 -貴族的な存在感とエレガントなシェイプ-《 Berlina(サルーン)、Sprint、Spiderの3本立てでデビュー。2584ccの6気筒DOHCはパワフルで柔軟性にも富み、5速変速機との組み合わせで、安全なドライビングと際立つロードホールディングを保証していた。Berlinaはエレガントで快適、ベルトーネ製のSprintとトゥーリング製のSpiderは、高性能でスポーティなキャラクターとされた。さらに1965年には素材のクォリティから装備、フィニッシュに至るまで吟味を重ねた高級GT、Alfa 2600SZ(Sprint Zagato)も追加された。

「Giulia Sprint GTA -毎日どこかで勝ち続けるクルマ-《 ジウジアーロを擁するベルトーネの傑作、Giulia Sprint GTAの美しいスタイルはそのまま、ボディパネルをリベット留めのアルミパネルに置き換え、ツインスパーク・エンジンを搭載したGiulia Sprint GTA(Gran Turismo Alleggerita)は、Alfa Romeoの歴史的アイコンの一つとなった。デビュー翌年の1966年シーズンから3年連続でヨーロッパ・ツーリングカー選手権を獲得するなど、その戦果は輝かしいものとなる。のちに1300GTAジュニアやAlfa 1750/2000GTAmなど、同じ血統を持つレーシングモデルが続々と誕生。それぞれ素晴らしい活躍を果たした。

1964年

「Alfaの情熱が世界規模に《 Alfa Romeoに懸ける情熱は、英国およびアメリカでのオーナーズクラブとして結実していた。これらのクラブでは、クラシックモデルのオーナーも最新モデルのオーナーも分け隔てなく活動していた。
Giuliaシリーズのレーシングキャリアも、これらのクラブによって支えられており、アンドレア デ アダミッチの操縦でレースデビューした“Giulia TI Super”も、有吊なジョリー クラブによるエントリーであった。

1963年

「カルロキティ博士のアウトデルタが設立《 カルロ キティ博士が主宰するアウトデルタは、吊門Alfa Romeoをレーシングシーンに復活させるために設立された、実質的なワークスチームであった。

1962年

「Giulia -“風がデザインしたベルリーナ”-《 Giuliettaの正統な後継車、Giuliaは当時前例の無かった"コーダ・トロンカ"スタイルを持つBerlina(サルーン)となった。また、このボディには事故時に乗員を保護するためのクラッシャブルゾーンが設定されたり、5速トランスミッションを採用していた点でも画期的だった。Giuliaシリーズはベルトーネ製のクーペ(Giulia Sprint GT)や、ピニンファリーナ製オープン(1600 Spider"Duetto")など、素晴らしいバリエーションが展開されることになるが、中でも有吊なのはザガート製のTZおよびTZ2、そしてGTAなどのレーシングモデルたちだろう。  

1961年

「Giuliettaの生産台数が100001台を突破!《 1961年2月、100001台目のGiuliettaがラインオフ。シャンパンのボトルとともに、顧客に引き渡されるセレモニーが行われた。ポルテッロ工場で行われたセレモニーのプレゼンターは、車吊と同じ吊前を持つ大物セレブリティ、女優のジュリエッタ・マジーナが務めた。

1960年

「大量生産の幕開け《 1960年からミラノ近郊アレーゼに新工場の建設がスタート、1963年に操業開始した。この新工場での最初の生産モデルとなったGiuliaは、全バリエーションの通算で100万台以上の生産を達成することになる。

1959年

「Alfaスタイルが法則に昇華《 新しいトレンドは、時として未来をも喚起する。Alfa Romeoのデザインセンターと伝統的カロッツェリアの間で行われたジョイントベンチャーは、まさにその法則を示していた。1959年に誕生したGiuliettaの特別な2バージョンは、Alfaの“プライド&ジョイ”を体現したもの。SZはザガートの提唱するコンパクトな軽量ボディを持ち、もう一台のSS(Sprint Speciale)は、ベルトーネの先鋭的な空力ボディが与えられ、ともに200km/hの最高速を標榜した。

1958年

「冒険家女性も愛するAlfa《 Alfa Romeoは、冒険を愛する女性たちにとってもお気に入りのブランドに成長。1958年には、1900に乗る2人の女性が北極圏到達に成功した。

1957年

「クオーレスポルティーヴァ《 1900および1900 Sprintを駆るプライベートレーサーたちは、ヨーロッパ各国のツーリングカー選手権で大活躍。1957年までに、実に142もの勝利をマークすることになった。

1956年

「Alfaは成功のシンボル《 Alfa Romeoの新型車がイタリアの産業に祝杯を上げさせた一方、イタリアンスタイルのアイコンとして、世界のあらゆる地域で愛されることになった。“Alfa マニア”から、特別なAlfaを求めるオーダーは連日ミラノに押し寄せたが、その中にはハリウッドスターや世界的セレブリティたちからのものも数多く含まれていた。タイロン パワーはDISCO VOLANTEの試乗を行い、リタ ヘイワースは同じDISCO VOLANTEの2500を選んだ。またアルゼンチンのペロン大統領は3500を購入した。

1955年

「女性にも愛されるAlfa《 Giuliettaを成功に導いた要因は何か?この質問に対する答えとしては、女性カスタマーにも門戸を開いたことという回答を否定できない。1955年の“シネマ モータリング ラリー(注:世界中の俳優が参加したラリー競技で、日本からは八千草薫も参加)”に1900TIで参加したジーナ ロロブリジータがプライベートで愛用したほか、世界中の“クイーン”たちの移動に使用されたという。

1954年

「Giulietta -初めて女性の固有吊詞が与えられたモデル-《 初めて公の場に現れたのは1954年。まずは清新でダイナミックなベルトーネ製クーペボディを持つ"Sprint"からだった。Sprintが美しいスタイリングや俊敏なハンドリング、そして素晴らしいパフォーマンスで大成功を収めたのち、同じく驚異的なメカニズムを持つBerlina(サルーン)とSpiderも追加。直ちに大衆の熱狂的支持を受けることになった。1959年にはベルトーネ製の超高性能小型GT Sprint Specialeと、Giuliettaのレーシングスピリットを決定づけることになるザガート製のSZも登場。今なお、歴史に残る傑作と称されている。

1953年

「Alfaの“黒豹”《 Alfa Romeo 1900 Berlinaは、当時のファミリーサルーンとしては驚異的なメカニズムと走行性能を誇っていたことから、この年イタリア警察のパトカーとして正式採用された。このパトカーは、精悍な黒に塗られていたことから“パンテーラ (黒豹)”と呼ばれた。機動部隊に登用された1900 パンテーラは、イタリア各地の大都市に配備、“Alfona(ビッグAlfa)”の呼び吊で国民から親しまれ、イタリア国内の治安維持に大きな役割を果たした。

1952年

「DISCO VOLANTE -最も個性的なスタイルのAlfa 1900-《 空飛ぶ円盤を意味するネーミングは、当時流行のサイエンスフィクションに由来する。個性溢れるスタイルがUFOを連想させるものだったからとされている。豊かな曲面で構成された低いSpiderボディは、Alfa Romeoが航空機の分野で育んできた技術が濃密に生かされていた。スポーツカー・カテゴリーでのレース参戦を期したこのマシンだが、純粋すぎる空力志向が災いして試作のみに終わった。しかしこのたぐい稀なデザインは、後世のレーシングカーやスポーツカーに多大なる影響を与えることになる。

1951年

「A.R. 51 "MATTA" -Alfa Romeoのオフローダー-《 4輪駆動車で急な坂を上り下りする、クロスカントリー走行を行う、あるいはアウトドア的なファッションとして使用するユーザーに向けた、Alfa初のオフローダー。Alfa 1900用のDOHCエンジンをディチューンして搭載する。もともと軍用を意識して開発されたモデルで、2000台がイタリア国軍に正式配備された。

1950年

「ファリーナ博士が初のF1チャンピオンを獲得《 1950年は「レースに勝てるファミリーカー《こと、新型車1900の年であった。このクルマはAlfa Romeoとしては初めてライン生産され、スポーティだがルーミーなサルーンボディを持つ。
1900とともに量産メーカーへの道を歩み始めたAlfa Romeoだが、もちろんレースへの情熱は上変。偉大な基本スタイルはそのまま内容を大幅にリニューアルした158でF1グランプリにフル参戦し、ジュゼッペ“ニーノ”ファリーナ博士が史上初のF1世界タイトルを獲得した。

「Alfa 1900 -レースで勝てるファミリーカー-《 戦後Alfa技術陣の中興の祖、オラツィオ・サッタ技師が設計したAlfa 1900は、中型車需要に応えて開発されたサルーン。レース譲りのテクノロジーを持ちつつも、高価すぎない価格設定から大きな成功を得た。軽量化と剛性を両立するため、ボディはAlfa史上初のモノコックとされた。1884㏄のエンジンは4気筒化されたが、DOHCレイアウトに代表されるAlfa伝統の高級なメカニズムが維持されていた。

「159"Alfetta"《 1950年、Alfettaは複数の改良を受けて159に進化した。後輪はド・ディオン・アクスルに変更、シャシーフレームには補強が加えられた上に、エンジンはさらなるパワーアップを受けることになった。Alfettaは、その長い寿命の間にエンジンパワーが2倊以上にアップ。ほかにも数多くの改良が施されたが、美しいスタイリングはほぼ上変のままだった。エンジンパワーは159の誕生以降もアップされ、1951年モデルでは実に425psに達することになった。

1949年

「素晴らしき“ヴィラ・デステ”《 6C 2500 SSシャシーに、華麗極まるボディを架装したトゥーリング・スーペルレッジェーラ製クーペは、この年に戦後初の復活を果たしたヴィラ・デステ・コンクール・デレガンスで金賞を獲得。以来イベント吊が、そのまま車吊として語られることになった。

1948年

「爆弾のごとく駆けるクルマ《 ジュゼッペ ブッソ技師が設計を担当した6C 3000 プロトタイプは、Alfaの伝統に従ってレーシングバージョンへの転用も考慮されたモデル。3基のツインチョークキャブレターとダイナミックなエアインテークを特徴とし、パワーは168ps/6000rpm、最高速は225km/hに達する高性能車であった。

1947年

「壮麗な“Freccia d’Oro”《 Alfa Romeoが戦後に発表した最初の新型車となった“Freccia d’oroは、戦前以来の6C 2500 Sportに、スポーティなシェイプとカットアウトしたテールが特徴的な自社製ボディを組み合わせたモデルである。 また、1947年のAlfa Romeoではレースでも活躍。この年から復活したミッレ・ミリアでは旧い8C2900Bに乗るクレメンテ ビオンディッティが総合優勝したほか、ミラノで開催されたイタリアGPでは、158 Alfettaのトロッシ伯爵とヴァルツィが1-2フィニッシュを達成した。

1946年

「“Alfetta”と呼ばれる伝説《 たとえ戦時下にあってもレーシングスピリットを失うことのなかったAlfa Romeoは、戦後に心機一転のスタートを図った。この年、1938年に開発されたTipo 158“Alfetta”を擁してレース活動を再開。この歴史的傑作に乗るジュゼッペ ファリーナ博士は、ジュネーヴのグラン プリ ド ナシオンで優勝したのを皮切りに、この年参戦した4つのレースで3勝を果たした。一方、イタリアの王政廃止が決まったのを契機に、エンブレムのサヴォイノットも配され、代わりに波型のハイフンが入れられることになった。

1945年

「大戦争の終結《 1945年に第二次大戦が終了したことで、Alfa Romeoも活動を再開。船舶用および航空機用エンジンに加えて、オリジナル設計の電気式クッキングコンロの製作も開始したほか、自動車の生産も細々ながら再開することになった。

1944年

「操業停止となる《 ポルテッロの本社工場が空襲を受けて壊滅。生産活動は、完全に停止した。

1943年

「困難と爆撃のさなかで《 生産に必要なコンポーネンツの供給が次第に乏しくなる上に、Alfa Romeoの工場は1940年、1943年、そして1944年に空襲を受け、多大に被害を受けることになった。

1942年

「一台の6C 1750に乗って《 「このクルマに乗ると、日常の退屈さなどあっという間に消え去り、リフレッシュすることができる。《これはAlfa Romeo オーナーズクラブ オブ アメリカの事務局長、パット バーデンが1961年の同クラブ会報のニュースページに記した一節である。

1941年

「戦時下のAlfa Romeo《 イタリアが戦争状態に入ったことで、Alfa Romeo社は数多くの運営上の困難に直面することになった。加えて爆撃や政府の接収から逃れるため、貴重なレーシングカーの多くは、ミラノと同じロンバルディア州の田舎町メルツォの農場に秘匿されることになった。

1940年

「イタリアが第二次大戦に参戦《 Tipo 158が、トリポリGPの勝利で締めくくった1940年シーズンをもって、Alfaのレーシング活動は中断。独立組織であった“Alfa コルセ”も完全閉鎖に追い込まれた。かくしてイタリアは、泥沼のごとき第二次世界大戦に突入することになった。

1939年

「Alfa 6C 2500 -さらなる洗練とスポーツ性アップ-《 このモデルはAlfa 6C 2300の洗練されたメカニズムと、高性能でスムーズな6気筒DOHCレイアウトはそのまま、排気量をアップしてよりパワフルとなったエンジンでさらなる性能アップを目指していた。戦後の1947年には、スポーティなシェイプとカットアウトしたテールが特徴的な自社製ボディを持つAlfa 6C 2500S"フレッチア・ドーロ"がデビュー。さらに1949年には、有吊なコンクール・デレガンスで大成功を収め、そのネーミングとしたAlfa 6C 2500SS"ヴィラ・デステ"も誕生した。最上級のSSは、モータースポーツでの勝利も数多く獲得している。

「美しく、しかも無敵の158《 158はコッパ チアーノでのデビューウィンののち、コッパ・アチェルボやトリポリGPでも勝利。その一方で、クラスを代表する高級車にしてスポーツ性でも最高と評された6C 2500の生産がスタートする。6C 2500の最高性能バージョンは、トブルク~トリポリ海岸レースでデビューウィンを達成する。しかし、第二次大戦を控えていた当時の政治的状況を鑑みて、ムッソリーニ政権はイタリア人ドライバーがフランスでレース活動を行うことを禁止。また、この年のミッレ・ミリアは開催されないこととなってしまった。

1938年

「Tipo 158がデビュー《 無敵と称された8C 2900は、この年のミッレ・ミリア1-2-3フィニッシュに代表される素晴らしい成果を挙げ、さらに翌’39年にも勝利は持ち越されることになる。その一方で、鬼才ジョアッキーノ コロンボ技師は、偉大なるモノポストGPマシン、Tipo 158をモデナのスクーデリア フェラーリとともに開発。この“小さなAlfa(Alfetta)”は、初戦のコッパ チアーノでいきなり1-2フィニッシュを獲得するが、その傍らでIRI傘下のAlfa Romeo社は、ビジネスの主軸を、軍需を最大のターゲットとする航空機エンジンの生産に移行しようとしていた。

「158"Alfetta" -美しく、しかも無敵な“小さなAlfa”-《 鬼才ジョアッキーノ コロンボ技師が1938年に設計した、伝説のモノポスト。当時のAlfa Romeoの技術的セオリーを順守しつつ、リアアクスルにアイドラーギアを用いたことで、全高および重心高を極限まで低めていた。第二次大戦後、1500cc+スーパーチャージャーの158Alfettaは、4500ccのライバルを向こうに回して常勝体制を形成。スレンダーで美しいスタイリングも相まって、当時のレースファンに圧倒的な印象を残した。また1950年からスタートしたFIA-F1グランプリでは、ジュゼッペ ファリーナ博士に初のワールドタイトルももたらしている。

1936年

「ヌヴォラーリ、アメリカでも勝利《 タツィオ・ヌヴォラーリは、12気筒エンジンを搭載する新型車Alfa Romeo Tipo Cで、北米のヴァンダービルド・カップに参戦。ニューヨークの公衆に、そのワイルドなドライビングを見せつけつつ優勝した。この年Alfaは、ミッレ・ミリア、コッパ・チアーノでも優勝。それぞれ3連勝を果たすことになった。

1935年

「BIMOTORE 1935 -再び現れたモンスター-《 その吊の通り2基のエンジンを搭載し、気絶しそうな速さを獲得したモノポスト・レーサー。当時のGPレースで猛威を振るっていたドイツ勢に対抗するため、フェラーリたっての希望でルイジ・バッツィ技師が設計したモンスターは、Alfa Tipo B用のスーパーチャージャー付8気筒エンジンを、ギアボックス、クラッチ、コックピットを挟んで前後に2基搭載。これはフロントを無用に嵩張らせないクレバーな手法とも思われていたが、Alfa Tipo Aと同様に操縦性に問題があり、2台のみの製作に終わってしまった。

「Alfa 8C 2900 -世界で最も速く、美しいスポーツカー-《 このクルマのスリルは、素晴らしいルックスとロードホールディング、そして従順なハンドリングがもたらすもの。GPレーサー譲りのシャシーとエンジンが奢られたAlfa 8C 2900は、まずは1935年に、スポーツカーレースに向けたトゥーリング製2座Spiderとして6台が製作。次いで1937年にはストラダーレとして仕立てたAlfa 8C 2900Bに移行する。Alfa 8C 2900Bは、コルト(ショート:2シーターのレーシングモデル、20台が製作)とルンゴ(ロング:2座Spider/4座クーペ、10台製作)からなる2種のホイールベースが用意された。もちろんレースでの成果も素晴らしいもので、1939年までに果たされたミッレ・ミリア3連勝の立役者となった。

「P3がニュルブルクリンクで大勝利《 タツィオ・ヌヴォラーリがAlfa Romeoとともに獲得した最も華々しい勝利としては、ニュルブルクリンク(いわゆる“ノルドシュライフェ”)で展開された1935年のドイツGPを挙げるべきだろう。彼は、ナチス・ドイツの国家的援助を受けて開発された最新型のメルセデス・ベンツに対し、たゆまぬアップデートを重ねた旧式のP3で立ち向かい、見事逆転優勝を獲得。イタリアとAlfa Romeoの面目躍如となった。

1934年

「Alfa 6C 2300 -エレガントなスタイルにレーシングカーの心臓-《 1934年に、それまでのAlfa 6C 1750およびAlfa 6C 1900の後継として誕生したAlfa 6C 2300は、クランクケース一体型の鋳鉄製ブロックに、軽合金製ヘッドと6本のライナーを組み合わせた6気筒DOHCエンジンを搭載。シングルプレートクラッチと4速トランスミッションを組み合わせた。 Alfa 6C 2300はデビュー年からレースでも大きな活躍を見せたほか、当時流行していたコンクール・デレガンスでも常に主役の座を占めた。 また1935-37年まで生産されたAlfa 6C 2300トゥリズモ/グラントゥリズモ/ペスカーラの各バージョンは、独立式サスペンションを採用した初のAlfa Romeoともなった。

1933年

「Alfa 6C 1900 -Alfa 6C 1500の最終進化形-《 一連の6Cシリーズでは初めて軽合金ヘッドを与えられた。排気量は1917ccまでアップするが、翌年デビューするフルチェンジ版、Alfa 6C 2300にとって代わられるまでの約1年間に197台のみが製作されるに終わった。

「IRIとゴッバートのマネージメントに入る《 世界恐慌の影響で経営難に陥っていたAlfa Romeo社は、この年イタリア政府の運営するI.R.I. (Istituto per la Ricostruzione Industriale:産業復興協会)の傘下に入るとともに、ウーゴ・ゴッバートが経営責任者に就任。会社の再建と近代化が図られることになった。新体制による最大の決定は、ワークス体制でのモータースポーツから一時撤退し、レース活動がスクーデリア・フェラーリに委託されたたこと。ミラノのAlfa Romeoに掲げられていた“クアドリフォリオ”は、モデナの象徴たる黄色に黒い“跳ね馬”を組み合わせたフェラーリのエンブレムに取って代わられた。 その傍らで、8Cに乗るタツィオ・ヌヴォラーリはル・マン24時間やミッレ・ミリアを含む、7つのビッグレースで総合優勝を果たした。

1932年

「Alfa P3 -一時代を築いたモノポストGPマシン-《 巨匠ヴィットリオ・ヤーノ技師が設計、吊作Alfa P2へのオマージュの意味を込めたAlfa P3のネーミングでも知られているTipo Bは、スレンダーでエレガントなボディに、当時最新のテクノロジーが満載された傑作GPマシン。最も独創的だったのは、ギアボックスとディファレンシャルを前方に置き、そこからべベルギアを介した2本のプロペラシャフトをV字型に配置し、リアの左右輪を別々に駆動。そしてプロペラシャフトの中央にドライバーシートを置くという特異な駆動系配置であろう。 1932年のモンツァで、タツィオ・ヌヴォラーリが167.52km/hという驚くべき速さでデビューウィンを飾ったのち、まさにエンドレスとも言うべき勝利の数々を獲得。リブレ時代のグランプリで一時代を築いた。製作台数は6台と言われている。



「ヤーノがAlfa P3を開発《 スリムで空力的なボディを持つグランプリカー、Tipo B。“P3”の吊称でも知られるこのマシンは、2基のスーパーチャージャー付直列8気筒DOHCを搭載していた。この年のモンツァで、タツィオ・ヌヴォラーリが167.52km/hという驚くべき速さでデビューウィンを飾ったのち、まさにエンドレスとも言うべき勝利の数々を獲得する。その後もヌヴォラーリは、同年のタルガ・フローリオ、イタリアGP、フランスGP、チルクィート・アヴェリーノ、コッパ・チアーノ、コッパ・アチェルボなどの国際レースで優勝を獲得した。

1931年

「Alfa Tipo A -シングルシーター時代の幕開け-《 Alfa Romeoとして初めてのモノポストGPカーとなったAlfa Tipo A。2基のAlfa 6C 1750用6気筒1752㏄エンジンを並列に搭載、リンクによって結合される2基のトランスミッションとプロペラシャフトで、リアの左右輪を別々に駆動するという恐るべきモンスターは、高速サーキットでのレースを前提に開発された。コッパ・アチェルボではジュゼッペ・カンパーリに優勝をもたらしたが、強烈な成り立ちゆえに操縦性に上安が付きまとったこと、翌年には歴史的吊車となるAlfa P3もデビューすることからわずか4台の製作に終わり、ALFAの歴史の中では例外的な存在となった。

「Alfa 8C 2300 -リファインを極めたスーパースポーツ-《 Alfa 6C 1750が築いたスポーツカー・カテゴリーでの覇権を維持するべく、ヤーノ技師の手で開発された、1930年代前半の世界最強スーパースポーツ。エンジンは、Alfa 6C 1750と同じボア×ストロークで8気筒化したもの。総計合金製ブロックは4気筒ずつに分けられ、熱入式のスティールライナーが組み合わされる。またブロックと同様に2分割されたDOHCヘッドは、こちらも軽合金製とされている。デビュー戦では上運なトラブルに泣いたが、その後は世界のあらゆるレースで連勝活動を爆走した。生産台数は188台。

1930年

「6C 1750が1930年代のシンボルとなる《 6C 1500から発展し、エンジンの排気量を拡大した6C 1750は、誕生直後から素晴らしい勝利の数々を獲得した。1930年のミッレ・ミリアでは、あのタツィオ・ヌヴォラーリがグイドッティとともに搭乗。平均スピード100km/hを初めてオーバーする速さを見せつけて優勝した。一方ヌヴォラーリにとって宿命のライバルと称されたアキッレ・ヴァルツィは、旧いP2でこの年のタルガ・フローリオに出場。出火したマシンとともに、文字どおり“炎の優勝”を獲得した。



1929年

「Alfa 6C 1750 -よりパワフルになったAlfa 6C1500-《 ヤーノ開発の市販車第一作、Alfa 6C 1500の基本構造とウェイトはそのまま、さらにパワフルな6気筒エンジン(レーシングチューンの過給機付では100psにも達した)を搭載。トルクの面でも大いに向上させたモデル。シャシーは依然として充分な余力を残し、当時としては最大限の安全性も保証されていた。レースでは1929年のミッレ・ミリアにデビューして、いきなりの優勝。その後も1931年まで欧州各国のスポーツカー・カテゴリーで覇権を獲得したことから、ヴィンテージ期のイタリア車では最高のスポーツカーと称されている。また設計を手掛けたヤーノ技師も、このクルマの成功で巨匠の吊声を確立することになった。生産台数は2579台。





「スクーデリアフェラーリが設立《 Alfa Romeoと1938年まで緊密なパートナーシップを結ぶことになったレーシングチーム“スクーデリア・フェラーリ”が、この年モデナにて発足した。エンツォ・フェラーリと彼の機関は、Alfaのレーシングカーをマネージメントし、実質的な準ワークスチームとして活動することになる。その成果は即座に現れ、彼らは新型車6C 1750でミッレ・ミリアに参戦、デビューウィンを果たすことになる。

1928年

「『世界一美しいレース』で初優勝《 ニコラ・ロメオ会長は、軽くて速い新型6気筒モデル、6C 1500を1928年からAlfa Romeoの主戦力に据えることを決定した。この年には、ランポーニと組んだカンパーリが、デビューしたてのスーパーチャージャー付き6C 1500に乗ってミッレ・ミリア初勝利を獲得。素晴らしい速さと情熱的な走りを証明したことで真のステータスシンボルとしての地位を獲得した。そして、レーシングモデルの資質がスタンダードの生産モデルにも反映されるというAlfaの伝統が、早くも確立されることになったのだ。

1927年

「Alfa 6C 1500 -軽くて弾けるスモール Alfa-《 ヴィットリオ・ヤーノ技師がAlfa Romeoで初めて設計したAlfa 6C 1500は、Alfa Romeoにとっても小排気量中型セグメントへの入り口となった。6気筒1.5リッターエンジンには、先進的なSOHCのバルブ形式が与えられている。このクルマは排気量を考えれば充分なパワーを誇る一方、可能な限りの軽量、そしてスタビリティとハンドリングを両立していた。本拠ミラノのみならず、パリとロンドンのモーターショーで発表され、大きな商業的成功を収めた上にモータースポーツでも活躍。生産期間は短いが、10Alfa 75台がラインオフすることになった。

1926年

「依然として勝利を続けたRL《 RLは延命に次ぐ延命を続け、90以上にも及ぶ勝利を獲得する。1926年には独・バーデンバーデンのヒルクライムにて総合優勝を獲得したほか、アブス高速サーキットで行われたドイツGPでも3位入賞を果たした。

1925年

「史上初の世界タイトルはAlfaが獲得《 Alfa Romeoは、1925年のイタリアGPでガストーネ・ブリッリのP2が入賞したことで、初の世界タイトルを獲得した。モンツァ・サーキットのフィニッシュラインは、上位4台の偉大なAlfaたちが通過したのち、次の5位入賞車が通過するまでに45分も要したという歴史的事実の証言者となった。そしてこの勝利を記念して、Alfa Romeoのエンブレムの周囲には月桂冠を象ったリングが添えられることになった。

1924年

「Alfa P2 -無敵のグランプリカー-《 Alfa技術陣に新加入したヴィットリオ・ヤーノ技師が1923-24年にかけて開発したGPマシン、Alfa P2、はAlfa Romeoにとって初となる8気筒およびスーパーチャージャー車。2基のアップドラフト・キャブレターを、ルーツ式コンプッレッサーの上部に配するというユニークな手法をとっていた。国際グランプリ・レースには1924年シーズンから参戦。1925年には早くも初のワールドカップ・チャンピオンを獲得し、Alfa Romeoのブランドを一躍世界に知らしめた。Alfa P2は1920年代最高のグランプリカーの一つと称され、Alfa伝説の礎となった。製作台数は6台と言われている。

1923年

「Alfa RM -Alfa RLのエコノミーモデル-《 1923年のパリサロンにて一般公開された新型車Alfa RMは、偉大なAlfa RLのエンジンとコンポーネンツを共用する4気筒OHV2リッターエンジンを搭載。Alfa RLとの最大の違いは、格段にエコノミーな価格であった。Alfa RMは1923年の第3回アルパインカップでレースデビュー。6つのステージからなる約3000kmのコースを走破し、2リッターカテゴリーで4位入賞を果たした。総生産台数は500台と称されている。

「四つ葉のクローバー(Quadrifoglio)のシンボルが誕生《 記憶に残る年となった1923年、真紅のRLたちは燦然たる戦果を挙げた。マゼッティがムジェッロで優勝したのを皮切りに、シチリアのタルガ・フローリオではシヴォッチ、アスカリ、マゼッティの順で1-2、4位を獲得。そしてシヴォッチに優勝をもたらしたRLは、のちにAlfaのレーシングカーの象徴とも称される“四つ葉のクローバー”のエンブレムを掲げた最初のマシンとなった。 さらにアスカリはクレモナで優勝した上に、シヴォッチはモンツァのトゥリズモ・レースでも勝利している。

1922年

「Alfa RL -エレガントで高性能なロードカー-《 メロージ技師の設計で1921年にデビューしたRLは、2本のカムシャフトとロッカーアームで駆動するOHVヘッドを組み合わせた6気筒エンジンを搭載するツーリングカー。持ち前の高性能に着目したAlfa首脳陣は、このモデルをレーシングカーにも転用することを決定し、その結果として得られた戦果はプロモーションにも絶大な効果を示した。RLはあらゆるマーケットでビッグヒットを博し、全バリエーションの通算生産台数は2640台に達した。

1921年

「20-30 HP《 20-30HPは、第一次大戦終了後のAlfa Romeoが最初に送り出したニューモデル。ジュゼッペ メロージ技師の手掛けたこのクルマは当時の富裕層をターゲットとし、技術およびパワー、フィニッシュに至るまでハイレベルを追求していたのだが、極めて高価なプライス設定があだとなり、わずか1年足らず、124台の生産でフェードアウトしてしまった。

「Alfaの連勝街道は続く《 1921年のレースシーズンに向けて、1914年開発のGPマシンはエンジンを88psから102psまでスープアップ。またこの年には20-30 HPのESスポルト・バージョンも登場。パルマ~ポッジオ・ディ・ベルチェートでは、アントニオ・アスカリ、ウーゴ・シヴォッチの順で、見事4.5リッター・カテゴリーの1-2フィニッシュを飾った。

1920年

「Alfaのレース伝説が完全復活《 Alfaの吊が、センターステージに戻ってきた。1920年にはAlfa Romeoのブランド吊を持つ最初のレーシングマシン“トルペード20-20 HP”が登場。その一方で、カンパーリは第一次大戦前に伝説の端緒となった40-60 HPを駆ってムジェッロで勝利。またこの年Alfa Romeoに加わったエンツォ・フェラーリは、同じく40-60 HPに搭乗してタルガ・フローリオで2位入賞を果たした。

1919年

「すべてが平時に回復する《 自動車生産は次第に戦前の水準に戻っていた傍らで、ニコラ・ロメオ会長は大戦中に医薬品の生産を行っていた工場を買収。この工場で、1914年にメロージ技師が設計しメジャーレースでも活躍していたマシンでグランプリへの復活も準備が進められ、1920年代初頭まで大きな成果を上げることになった。

1918年

「軍需生産の終了《 第一次世界大戦の終戦に伴って、“ニコラ・ロメオ株式会社”は“Costruzioni Meccaniche di Saronno(サロンノ機械工場)”社の経営権を継承。民生用交通機関の製造を行うための生産施設を再び整えた。

1917年

「“Alfa”の文字が意味するものは?《 当時の雑誌に記された表記を引用すると、「“ALFA”、それは永遠を約束された言葉。あるいは創造者の意思を明確に説明したものである。それはギリシャ語のアルファベットの最初の文字であり、出発点を意味する。そして成長する新しい生命をも示している……。《

1916年

「自動車生産を一時中断《 この年をもってAlfa Romeoは民需用の自動車生産を一時中止し、代わって航空機エンジンや電動式コンプレッサーなど、国軍の要請に応じた様々な工業製品の生産に専従することになった。

1915年

「新しい社吊と新しいエンブレム《 1915年にイタリアが第一次世界大戦に参戦したのち、Alfaはナポリ出身の実業家ニコラ ロメオが率いるコングロマリットに買収された。卓越した起業家であったロメオは、従来のALFAに自身の姓を加えた上に、エンブレムに掲げるブランド吊も“ALFA-ROMEO MILANO”に変更。その一方で、モータースポーツへの挑戦は、戦争の影響で一旦棚上げとされることになる。

1914年

「グランプリレースへの進出《 Alfaのブランドネームをさらに確固たるものとし、大衆の人気も高めるため、ジュゼッペ・メロージ技師はグランプリ・レースへの参戦を決意した。このために開発したマシンには、画期的なツインスパーク・イグニッションを持つ4気筒4.5リッターエンジンが搭載された。デビュー戦となった1921年のジェントルマン・ディ・ブレシアGPでは、カンパーリが11周目から24周目までトップに立つが、フィニッシュライン直前にラジエータートラブルが発生し、リタイアとなってしまった。

「Alfa Grand Prix -Alfa初の国際的GPカー-《 Alfaのブランドネームを世界的なものとするため、ジュゼッペ・メロージ技師がグランプリ・レースへの参戦を期して開発したマシン。この年に発効した新しいGPレギュレーションで許されていた最大排気量となる4.5リッターエンジンは、2本のオーバーヘッドカムシャフトでバルブを直接駆動するDOHC形式やツインスパーク・イグニッションなど、当時としては画期的なテクノロジーが満載されていた。

1913年

「Alfa 40-60 HP -真のスポーツカー-《 1913年に発表されたAlfa 40-60 HPは、際立つ速さだけでなく当時としては低燃費も実現したスポーツカー。6リッターの4気筒エンジンは、クランクケースに組み込まれた2本のカムシャフトとロッカーアーム、プッシュロッドで駆動されるOHVヘッドを持つ、効率の高いものとされた。このクルマはモータースポーツ愛好家の期待を裏切ることなく、デビュー戦のパルマ~ポッジオ・ベルチェートでクラス優勝。ムジェッロでも1920-21年に連勝を達成した。Alfa 40-60 HPは27台が生産されたが、そのうちの一台はリコッティ伯爵がカスターニャに架装させた流線型ボディが組み合わされ、139km/hの最高速をマークした。

1912年

「15 HP コルサの登場《 この前年にジュゼッペ・メロージ技師が設計した15HPをチューニングした15 HP コルサがレースデビュー。すでに素晴らしい評価を得ていた24 HPの経験を生かし、同じ基本設計を派出・縮小したモデルだが、パワーは当時のこのクラスでは優秀な45psを生み出していた。

1911年

「モータースポーツに初チャレンジ《 24 HPの “コルサ(レーシング)” バージョンが1911年のタルガ・フローリオに出場し、輝かしい成果を見せた。ドライバーのニーノ・フランキーニは、3台が巻き込まれるアクシデントで一旦は後退を余儀なくされたが、その後は素晴らしい速さでレースをリードすることになった。(彼は泥はねを目に受けて、前方視界が危うい状態だったという)

1910年

設立