1960年
ニュールンベルグの国際玩具見本市に初出展するも、斬新過ぎて一般には受け入れられず、しばらく経営的に厳しい年月が続くが、次第に評判となっていく。
1967年
小さな工房、馬小屋を改造した工場を経て、ついにバーゼル近郊のツァイニンゲン(Zeiningen)に工場と倉庫を併設した本社ビルを建設することになる。この建設に当たっては資金に限界があったため、工場のあり方についていろいろな検討をする。その結果、全部を自社工場で作るのではなく、それぞれの部品を得意なメーカーに下請けさせ、組み立てと仕上げをネフ社が責任をもって行うという、自動車工場と同様のやり方をとることとした。
しかし、最小規模とはいえ組織が大きくなると《経営》が大きな課題となってくる。デザイナーとはいえ経営者となると、開発のコストや価格をつい考えてしまい、デザイナーとしての自由な発想にブレーキがかかってしまう。営業のために費やす時間も多くなり、一番大事な新しい玩具をデザインする時間が持てなくなる。そんな折、後にネフ社製品の代表的デザイナーとなるペア・クラーセン(Peer Clahsen)氏との出会いがあり、それをきっかけとして自身はデザイナーから、経営者へと転換してゆく。その後、クラーセン氏だけでなく、多くの世界のデザイナーが、ネフ社での製品化を目指して、作品を持ち込む方式が徐々に確立されていくことになる。
1971年
アトリエニキティキを通して、ネフ社が始めて日本の市場に登場する。
ネフ氏と日本の長く親しい関係の始まりである。
1974年
ネフ氏初来日。以後、親日家となったネフ氏は、その後7回も日本を来訪する。
1980年代
ネフ社にとって充実した実りの多い時代。多くのネフ社製品が世界中で求められるようになる。
1989年
個人会社であったネフ社を株式会社にして経営から身を引き、商品開発と販売のアドバイザーとして、期限を決めて顧問としてのみ関わることになる。それを機に、自分の経営する玩具店「PLAY ON」(現存せず)をネフ氏が長く住んでいた、ネフ社の近くの小さな街、ラインフェルデン(RHEINFELDEN)にオープンさせ、また長く離れていたデザインの仕事にも集中できるようになった。その後、1992年にはフランスに居を移し、念願の工房もつくる。
1997年
すでにネフ株式会社とは顧問契約が終了(1995年)していたが、ネフ社の強い要望でふたたび顧問としてネフ社に関与することとなる。
1999年
10年続けた「PLAY ON」を売却。お客さんと接して学んだことを生かし、もっと玩具をつくりたいと考える。
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