このページはバックナンバーです。(2005年4月28日発行)

ジャパンポップスの黄金時代

 在、東京・有楽町マリオンがそびえ立つ場所には、かつて娯楽の殿堂と呼ばれた大劇場、日劇こと日本劇場があった。映画と実演がセットになった興行では、戦前・戦後を通じて多くの名作がスクリーンに映し出され、数多のスターがそのステージを踏んだ。

 や伝説となっている「日劇ウエスタン・カーニバル」が初上演されたのは昭和33年2月。それまでにも有楽町のヴィデオホールで若い観客を集めていた舞台であったが、当時渡辺プロの副社長だった渡邊美佐や、後にホリプロを興す堀威夫らの尽力により、大ホールで成功を収めたのである。平尾昌章(現・昌晃)、ミッキー・カーチス、山下敬二郎のロカビリィ三人男をはじめ多くの若手のスターを輩出し、以後GSやヤング・ポップスへと内容を変えつつも、日劇の名物ショーとして約20年間続けられることとなった。

 公演を機に、「若者のための音楽」と云う概念が生まれ、流行歌の世界に変革がもたらされたことは最も大きい。それは外国カヴァー曲の主流が、ジャズやラテンから、ロックやポップスへと移行していったことからも顕著で、ひばり・チエミ・いづみの三人娘と、中尾ミエ・園まり・伊東ゆかりの3人娘の世代間の相違はそこにある。

 カビリィの流行に続いては、諸外国(主にアメリカ)の流行音楽に日本語をのせた、カヴァー・ポップスの黄金時代がやってくる。坂本九、弘田三枝子をはじめ、ザ・ピーナッツや前述の3人娘らが大活躍し、昭和30年代後半を彩った。彼らはやがてオリジナル・ポップスに手を染めて40年代の和製ポップス隆盛期へと繋がってゆくのだが、その間に歌謡界は青春歌謡と並行してのエレキ・ブームで加山雄三がブームに。さらにビートルズの来日を機にグループサウンズが頂点を極める。45年の万博の頃を境にアイドルやニューミュージックが台頭してくる以前までが、流行歌にとって最も面白い時代であった。

鈴木 啓之(音楽評論家)
 

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