印鑑の歴史

印鑑の歴史 --古代中国から日本へ--

紀元前
2000年
  封泥
・印璽
・印信
・印記
・図章

 気の遠くなるほど昔から高い文化を誇っていた中国人も紀元前2世紀ごろには、まだ紙を持っていませんでした。

 文字で何かを記録するときには木牘(もくとく)といわれる木札か、竹簡(ちくかん)といわれる竹札に書き、これを紐で編み、箱に納め、ふたをして紐でくくり、その結び目に粘土をかためてつけて、上から璽印(じいん)を押しました。これが封泥(ふうでい)です。封泥に押されている印を印璽(いんじ)、印信、印記、図章と称していました。


 ヨーロッパにもこれに似た習慣がありますが、泥ではなく蝋でかためた封蝋(ふうろう)です。重要な国際文書、外交文書に封じめをするためのもので、現在でも使用されています。封じめに押された印が、封印です。


 戦乱の耐えなかった春秋戦国時代に終止符を打ち、天下を統一したのが秦の始皇帝です。紀元前221年、中国大陸に初めて中央集権国家が誕生したわけですが、始皇帝は文字の統一にも着手しました。統合された文字を秦篆(しんてん)、篆書(てんしょ)といいます。秦代から漢代の印の書法が篆書によって彫られ、今でも印鑑の基本になっています。

 始皇帝は、文字の整理、統合と同時に皇帝印を定め、権威と地位のしるしとして、璽(じ)の文字を皇帝の印章に限定し、皇帝の印を「璽」と称しました。日本でも中国にならって天皇の印鑑を「天皇御璽」と刻文するようになり、それは現代でも変わりありません。


 後漢の時代に中国から日本に渡ってきたといわれているのが、最初に日本に伝えられたとされる印、「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と彫られた金印です。

 西暦57年ごろの日本はまだ文字をもっていませんでした。「漢委奴国王」と刻まれた五文字は、日本人が初めて接した漢字だと思われます。日本民族の文献的史料が存在する歴史は、ひとつの印鑑から始まったと言えるでしょう。

1550年 殷王朝 甲骨文字
・亀甲文
・獣骨文
(古銅器銘文)
1050年 西周 石鼓文
・金文
・大篆
771年 東周 春秋戦国時代
403年  
221年 始皇帝が天下を統一
・秦篆を成立
・隷書もできる
206年 前漢 漢朝廷
・隷書体
・古隷
・八分隷
・篆書体の完成
 
紀元9年  
25年 後漢
57年   光武帝の金印
220年 三国 ・行書
・章草
280年 西晋
東晋
 
420年 南北朝 ・楷書
・行書
・草書  成立
589年  
618年  
907年   ・楷書
・行書
・草書  完成

日本最古の印鑑


 中国古代の歴史書『後漢書』の東夷伝倭人の条のなかに
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。」とあります。
建武中元二年は、西暦57年、倭国は日本、奴は博多一帯をさす地名です。この記事によって、光武帝から倭奴国王に金印が贈られている事実は学者などには知られていました。が、その金印がどんなものかはわかりませんでした。


1700年の眠りからさめた金印

 江戸時代、天明4年(1784年)2月23日。北九州、博多の対岸に位置する小さな島、志賀島の南側にある叶の崎で、農夫の甚平衛さんが働いていました。田んぼの境の溝がつまって水はけが悪くなったので、直そうと土を掘り返していると、石の下から金属の塊が出てきました。たいして気にもせずに持って帰って、よく洗うと金色に底光りする見なれない四角なものになりました。正方形の一面には文字らしい紋様が刻んであります。なんだかわからず、しばらく家の中に放り出したままにしておきました。後に、日本の歴史を書きかえるほどの重要な、1700年間も地中に埋もれ、眠っていた金印だとはつゆ知らずに・・・。
 甚平衛さんの掘り出した金色の光る物は
近所の評判になり、いつか黒田藩おかかえの
漢学者の耳に入ります。
専門家の目によって金印は調べられ、文字が
読まれて『後漢書』に記載のある光武帝から
の印であると判定が下され、藩主黒田家に
献上されたのです。

金印は封泥に押すために作られた品なので陰刻であり、しかも刻みが深くなっているのが特徴です。
陰刻とは、普通の印鑑のように、文字を残し余白の部分を掘り下げるのではなく、余白を残して、文字の部分だけを彫る方法です。
 この金印は、23.5mmの寸法の角型で、漢代の印制とぴったり符号します。また、後漢時代の初期における典型的な作印法で製作されています。篆書体(漢体)の書体、文字の配文法の面からも疑いもなく本物と考えてよいでしょう。
 蛇紐(蛇の姿をした把手)の頭上から印面までの高さが22.1mm。印面の厚み9mm強。これが金印のすべてです。

まだ発見されていないもうひとつの金印

 魏の景初3年(239年)倭の女王卑弥呼(ひみこ)が大夫難升米(なそめ)らを遣使として朝貢を求めて洛陽の都へ上がった際に、時の魏王明帝は、卑弥呼に親魏倭王という破格の称号を与え、金印を授けています。遣使の難升米も魏の宮廷の高官と同じ待遇をされ、銀印を受け、銅鏡百枚などの賜物を贈られています。
 魏の景初3年の銘のある鏡は出土されていますが、卑弥呼の金印は残念ながらいまだに発見されていません。 



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