日露戦争(明治37年(1904)2月〜38年(1905)9月)と日韓併合(明治43年(1910)8月)は、国内産業の近代化、国際貿易の著しい伸長(明治44年(1911)、関税自主権確立)をもたらした。とくに、中国、東南アジア各地への輸出は激増し、大正初期には輸出のほぼ半分が東洋向け商品で占めるに至った。
国民生活が急速に洋式化し、かつ商品の販路が国外に広がったことは、鞄にとってもその質に、量に、そして生産ならびに販売方式にも大きな影響を与えることになる。
鞄専門店も逐次増加した。なかでも、鞄の普及、促進に力になったのは、明治40年(1907)頃から百貨店との取引が開始され、販売、陳列方法が大いに変化、拡大したことである。
鞄そのものも人気も一変した。日清戦争(明治27年(1894)7月〜28年(1895)4月)のとき、軍用として考案された雑嚢が、露戦争の直後から学生の間に流行し、一般社会にも普及したのは、その最もたるものであった。従来は軍用品製造を主体としていた鞄業界も、平和産業への移行が促進されることによって、一層の発展をもたらした。
また、国内旅行や国際的交流の増加は、台下鞄(寝台の下に入れる鞄)や服入鞄(スーツケース)の改良と普及をうながした。
袋物(ハンドバッグ類)も、明治中期は古代切れや鹿革を用いた信玄袋が代表していたが、明治末期には千代田袋が登場した。女帯地の錦織を使った千代田袋は、大正7,8年(1918、1919)ごろ大流行をきたしている。
大正初期、洋装が女性の間に浸透し始めると、オペラバッグ(小型ハンドバッグ)は上流階級だけのものではなくなった。また、札入れ、名刺入れ、二つ折り鉛筆差し(シース)などは、日常の必需品としてみなされるようになった。
需要の増加に伴い、松崎も、代地河岸の工場の中に袋物部を設立して(明治39年(1906))、製造面を大幅に強化した。
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