Rakuten新春カンファレンス2020

「Walk Together」をテーマに、同じ悩みや目標を持つ楽天市場出店者同士の出会いを通じて、店舗運営に役立つ学びを得る「楽天新春カンファレンス2020」。組織を改革していくために外からの知を取り入れるという考え方ではなく、組織の内側にある知を発見し、「対話」を通じて改革に生かすことができるというのが、『他者と働くー「わかりあえなさ」から始める組織論』の著者である埼玉大学経済経営系大学院准教授 宇田川元一(うだがわ・もとかず)氏の考え。「自分たちは何者なのか?」 それを知ることが改革の第一歩である、という宇田川氏の幅広い見識から、「対話」の持つ遠大な力が見えてきました。

宇田川 元一 氏
1977年東京都生まれ。2006年早稲田大学アジア太平洋研究センター助手、2007年長崎大学経済学部講師・准教授、2010年西南学院大学商学部准教授を経て、2016年より現職。専門は、経営戦略論、組織論。ナラティヴ・アプローチに基づいた経営変革、イノベーション推進、戦略開発を中心に研究を行っている。また、様々な企業のアドバイザー、メンターとして、その実践を支援している。2007年度経営学史学会賞(論文部門奨励賞)受賞。『他者と働くーー「わかりあえなさ」から始める組織論』(NewsPicksパブリッシング)著者。

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「アウトサイド・イン」から「インサイド・アウト」への発想の転換。

最後に、「『ナラティヴ(解釈の枠組み)』を読み解くために、もう一歩前に進んでみよう」というお話をしたいと思います。1つのやり方をご紹介します。開発経済の領域で考え出された「ポジティブ・デビアンス(PD;Positive Deviance)*1」という方法です。この考え方を簡単にご説明します。「デビアンス」とは「逸脱者」という意味です。「ポジティブな逸脱者」という意味ですね。開発者はジェリー・スターニン(Jerry Sternin)*2という方です。

ベトナムに、こどもの栄養状態が非常に悪い農村がありました。スターニンたちが栄養状態改善プロジェクトを始めようとした時に、この「ポジティブ・デビアンス」という考え方を使いました。それまでにもWHOなどが度重なる栄養指導・支援をしても失敗続きで、「あの村は何をやっても無駄だよ」と耳打ちされたそうです。でも、スターニンは「True , but useless.(それは正しいけど、何の役にも立たないよね)」と思ったそうです。そこで、彼は何をしたかというと、その村に行き、例外的に少しだけ栄養状態が良いこどもを探したそうです。すると2軒だけ見つかりました。その2軒で何をやっているのかを調べてみたんですね。同じ村なので、基本的には同じ食材しか手に入らないわけです。ところが、こどもの栄養状態が良い家が2軒だけあった。調べたら非常に面白いことがわかりました。普通の家では食事を1日2回に分けて与えていたのですが、その2軒では食事を1日4回に分けて与えていたそうです。「なんだ、そんな簡単なことなの?」という話ですよね。

栄養状態が悪い人というのは、一度にたくさん食べるより、何回かに分けて食べた方が吸収が良いですよね。また、他の家では捨てていたイモの葉なども、ごはんと一緒に炊き込んで食べさせていました。そのおかげで、ビタミンや食物繊維が摂れて栄養状態が良かったということなんですね。つまり、「こうしなさい」という正解を「アウトサイド・イン(外側から内側へ)」で持ってくるのではなく、すでに内側にある「解決する力」をいかに発見するかという「インサイド・アウト(内側から外側へ)」のアプローチを採用したわけです。リーダーとは何かというと、「外から解決策をもたらしてリードする存在」というよりも、むしろ「内側にある解決策を探す存在」だとスターニンたちは言っています。だから、「アウトサイド・イン」ではなく「インサイド・アウト」で行こうというのが「ポジティブ・デビアンス」の考え方なんです。みなさんも、運営されている会社や所属されている組織の中で「何かがおかしいな...」と思った時には、そこには必ず「例外的にうまくいく時」「例外的にうまくやっている人」というのが存在すると思うので、その状況やその人を観察し、うまくいった理由を研究してください。そうすれば、アウトサイドで言われているノウハウを学ぶよりも、100倍も有効なものがインサイドで見つかるのではないかと思います。

注意しなければならない「成功体験との向き合い方」。

次に「過去の成功体験は大切にせよ。ただし、単純化を避けよ」という話をしたいと思います。日本の企業社会では「過去の成功体験を捨てられないからうまくいかない」と言われますが、本当にそうでしょうか? 私はそうではないと思います。過去の成功体験が「単純化して受け継がれていること」に問題があると思うわけです。

1945年4月7日に、坊ノ岬沖海戦*3がありました。戦艦大和*4による特攻作戦です。この作戦での日本軍の死者は4,000名近くに達しました。それに対して、米軍の死者はどれくらいだったかご存知でしょうか? 12名です。これは、ほとんど戦闘になっていない。戦闘と呼べる代物ではなく、自殺に近い作戦だったということがわかります。あまりにもひどいですよね。どうしてこんなことが起きたのか。それは、戦艦大和は当時において、すでに技術的なイノベーションにおいて、アメリカ軍に対して大幅な遅れをとっていたからなんです。当時は航空戦力が中心になっていたので、いくら対空砲火を装備していても、急降下爆撃を行なってくる米軍戦闘機に対しては何の意味も持ちません。戦艦大和は単なる鉄の塊になってしまったわけです。では、なぜ戦艦大和なんてものを作ったのでしょうか? 戦艦大和にと戦艦武蔵には、当時の日本の国費の15%ほどが投じられたそうで、実に大変なプロジェクトですよね。

1905年、日露戦争における最大の艦隊決戦として知られる日本海海戦において、ロシアのバルチック艦隊*5を撃破しました。艦隊決戦主義で得たその時の成功体験を捨てられなかったから、戦艦大和と戦艦武蔵を建造してしまい、このような悲惨なことになったと言われます。ですが、ここは少し気をつけないといけません。「艦隊決戦主義」というものに単純化されたことが問題なんですね。日本海海戦を丁寧に見ていくと、意外な事実がわかります。日本海海戦で勝った時、連合艦隊司令長であった東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)は「東郷ターン」と呼ばれる有名な敵前回頭を決行しました。当時は航空戦力がなかったので、戦艦の横に装備された砲門で一艦ずつ集中砲火を浴びせていったわけです。艦隊数ではバルチック艦隊に勝てませんが、艦隊運動と射撃命中精度によって砲門数の劣位をカバーしようとしたんですね。しかも、当時の最新鋭の信管を開発していました。バルチック艦隊の砲弾は貫通力が高かったんですが、連合艦隊の砲弾は爆発燃焼力が高かったんです。なるべく早く艦船に火災を起こし、相手の戦闘力を下げることを狙ったわけです。さらには、民間人に協力してもらって離島に索敵網を引いていたため、バルチック艦隊がどこから来るか、いち早く情報を入手することができました。

別の言い方をすれば、これは「優れた戦術」「徹底した訓練」「最新鋭の技術」「徹底した情報収集」によって勝利したのであり、艦隊決戦によって勝利したわけではありません。緻密なことを積み重ねて勝利したという成功体験でした。それが単純化されて引き継がれたことに問題があるわけです。事程左様に、我々の社会や企業は様々な成功体験を持っていますが、それを大切にしないことで、地に足のつかない改革のゲームに巻き込まれ続けています。そして、依存症的状態に陥っているのです。我々はどこから来て、何を理想として頑張ってきたのか。どんな引き継ぐべきプロセスがあったのか。しかし、時代の変化もあるのでその中において改革すべきものは何か。絶対変えてはならないものは何か。守るべきものを守るために何を改革しなければならないのか。我々自身の歴史を紐解くことにより、そのことをもう一度やっていく必要があります。それは企業においても必要なことだと思います。

「自分たちが何者であるか?」

もう一つ例を出します。マイクロソフト(Microsoft)のCEOであるサティア・ナデラ(Satya Nadella)*6の『Hit Refresh: マイクロソフト再興とテクノロジーの未来』という本の中に出てくる言葉です。マイクロソフトは終わった会社だと言われ、時価総額もジリジリと下がっていたんですが、ナデラは見事に時価総額トップの座をアップル(Apple)から奪回しました。それは、それまでのOSやソフトを販売するビジネスから、Microsoft Azure(マイクロソフト・アジュール)*7というクラウドソリューションの会社へと大幅にシフトしたからです。

ナデラはMicrosoftを改革しようとしたときに、「我々とアップルは違うんだ」ということをかなり明確に強調していました。「アップルのような会社になりたい」「グーグル(google)のような会社になりたい」というような本が売れますが、そうではなく、「自分たちは一体何者なのか?」ということをもう一度問い質すところから始まっています。ナデラのお子さんは、奥さんのお腹の中にいるときに窒息状態になって重度の脳性麻痺を持って生まれてきました。お子さんの病棟に行くと、集中治療室で患者の生命を維持する機器がマイクロソフトのOSを使って動いているということに気がついたそうです。「その経験を通じ、私はマイクロソフトでの私たちの仕事がビジネスを超えていることをはっきりと悟った。現にその仕事は、か弱い男の子の命を支えている。そう考えると、我が社のクラウドやWindows10のアップグレードに関する今後の判断も、これまでにない重要性を帯びることになる。私はそのとき、この点を肝に命じなければならないと思った」と『Hit Refresh: マイクロソフト再興とテクノロジーの未来』の中でナデラは書いています。

つまり、彼は「自分たちはこの世の中で、どういう役目を果たしているのか?」ということを新たに知ったわけです。単にOSを売っているわけではない。単にソフトウェアを売っているわけではない。現に自分のこどもの命を支えている存在であり、世の中にとって欠かせないインフラになっているんだ。そうして、自分たちの存在に新たな光が当たったわけですね。その観点から、大きな改革を成し遂げていったんですね。これは「自己決定」と言ってもいいのかもしれません。こうした背景を持っていること、そしてその過程を丁寧に紐解き共有すること、そうすることで、皆がその改革への参加者になる地平ができてきます。だから、地に足のついた改革になると思うんですね。

ところが、企業を改革しないといけないときに、「どうやったら儲かるか?」という視点で見てしまうと、それ以上の位相で自分たちを捉えることがなかなかできません。プロセスがほとんどわからないまま、「これは必要だから」「これは良い方向だから」では、人々は参加できません。だから、もう一度、「自分たちは何者なのか?」ということをよく紐解くことで、我々はもっと良い改革を進めることができるのではないでしょうか。これまで「他者との対話」の話をしてきましたが、「自分との対話」「自分たちの歴史との対話」も「対話」においては非常に重要なことだと思っています。つまり、「新しい方向を向くためのリソースは、我々の中に備えられている」ということです。それを導き出していくことが、改革をしていく上で大事な対話的な実践であると言えるのではないでしょうか。

最後に、大変感銘を受けた本の一節を紹介したいと思います。内村鑑三(うちむら・かんぞう)*8の『代表的日本人』*9という古典です。この中で上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)*10に関する話が出てきます。鷹山は、藩主として赴いた土地が大変困窮している様子を、輿の中から見たわけです。「この目で、我が民の悲惨を目撃して絶望におそわれていたとき、目の前の小さな炭火が、今にも消えようとしているのに気づいた。大事にしてそれを取り上げ、そっと辛抱強く息を吹きかけると、実に嬉しいことには、よみがえらすことに成功した。同じ方法で、わが治める土地と民とをよみがえらせるのは不可能だろうか、そう思うと希望が湧き上がってきたのである」と。非常に示唆に富んだエピソードとして『代表的日本人』の中で取り上げられているのですが、「外側にある何かではなく、すでにあるものに息を吹き込むこと」が、経営改革における最も重要な対話的実践の一つだということです。スターニンがやったように、八方塞がりだと考えている、あるいは、困難な状況にある組織の中にも、良い兆しは必ずあるはずです。それを見つけて、もう一度そこから希望を湧き上がらせて改革に挑む。2020年は、是非このことに取り組んでいただけたらと願っています。本日はご静聴ありがとうございました。

*1 ポジティブ・デビアンス(PD;Positive Deviance) | 直訳すると「ポジティブな逸脱」。どのような地域や組織にも、隣人たちと同じような問題や困難を抱えながら、かつ、他より資源を多く持っているわけでもないなかで、「他とは違っためずらしい行動や方法」によって上手く問題を解決している個人やグループが僅かながら存在する。PDの概念はこの事実に着目しており、地域や個人が自分たちで「他とは違っためずらしい行動や方法」を見つけ出し、地域内の他の人たちに普及させることを目指している。

*2 ジェリー・スターニン(Jerry Sternin) | PD領域の先駆者の一人。フィリピン、バングラデシュ、ベトナム、エジプト、ミャンマーなどで「セーブ・ザ・チルドレン(Save the Children)」のカントリーディレクターを歴任。徹底した実践主義を強調した。開発経済の世界で発祥・発達したPD領域の専門家としては、他にもモニーク・スターニン(Monique Sternin)、アービンド・シンハル(Arvind Singhal)らが知られている。2008年、死去。

*3 坊ノ岬沖海戦 | 1945年4月7日、海上特攻隊として沖縄に向けて進路を取った大日本帝国海軍の戦艦・大和とその護衛艦艇に対し、アメリカ海軍の空母艦載機が攻撃を行った戦闘のこと。およそ2時間に及ぶ戦闘の結果、大和を含む6隻が沈没。大日本帝国海軍の参加兵力4,329名のうち、4,000名以上が命を落とすこととなった。大和の針路は米軍の索敵によって完全に把握されており、また、航空戦力の援護のない中での進軍は、米軍艦載機の格好の標的となった。日本側の甚大な被害に対し、米国側は艦載機12機を失うに留まった。この敗戦を機に、戦局は一層厳しいものとなっていった。

*4 戦艦大和 | 大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の1番艦。2番艦である武蔵とともに、広島県の呉海軍工廠で建造され、1941年12月に完成した。全長263m、最大幅38.9m。排水量64,000トン。1945年4月7日、沖縄に向けて進行中に米軍の攻撃を受け、鹿児島沖の東シナ海に沈没した。乗員3,332名のうち、生還者は276名。大艦巨砲主義の象徴であり、それまでのタラント空襲、真珠湾攻撃、マレー沖海戦などの経験から、航空機による適切な援護なしに戦艦を戦闘に参加させてはならないことが明らかになっていたにも関わらず、大和の最後の出撃は航空機による援護を欠いていた。

*5 バルチック艦隊 | ロシア連邦海軍の主要艦隊。ロシア艦隊の中で最も長い歴史をもつ。ロシアとスウェーデンとの間で勃発した北方戦争の初期に、ピョートル1世(Pyotr I Alekseevich)によって創設され、戦争終結時にはバルト海最強の艦隊となった。1703年、ペテルブルグの建設開始とともに築き始められたクロンシロト(現・クロンシタット)要塞を基地とした。日露戦争時、東洋に回航され、日本海海戦において東郷平八郎率いる日本海軍連合艦隊によって撃滅された。日本ではバルチック艦隊という呼称が一般的だが、本来はバルト艦隊もしくはバルト海艦隊が相応しい。

*6 サティア・ナデラ(Satya Nadella) | インド・ハイデラバード生まれ。ファーストネームのSatyaは、サンスクリット語で「絶対的真実」を意味する。シカゴ大学でMBAを取得後、マイクロソフトに入社。サーバ部門、ビジネスソリューション部門を経て、2008年、オンラインサービス部門の上級副社長に就任。2014年、ビル・ゲイツ(William Henry "Bill" Gates III)、スティーブ・バルマー(Steven Anthony Ballmer)に次いで、同社3代目のCEOに就任した。

*7 Microsoft Azure(マイクロソフト・アジュール) | マイクロソフトが提供するクラウドサービス。一般的に「IaaS(Infrastructure as a Service;仮想サーバーやストレージ、ファイアウォールなどのインフラを、インターネット上で使えるサービスとして提供する形態)」や「PaaS(Platform as a Service;アプリケーションソフトが稼働するためのデータベースやプログラム実行環境などが提供されるサービス)」と呼ばれる分野のもの。

*8 内村鑑三(うちむら・かんぞう) | キリスト教思想家。無教会主義の創始者。高崎藩士の子として江戸藩邸に生まれる。札幌農学校入学後、W.S.クラーク(William Smith Clark)の感化で受洗。卒業後に渡米し、アマースト大学などに学ぶ。1891年、教育勅語に対する不敬事件のために第一高等中学校講師の職を追われてから、1897年に『万朝報』の記者となり、『聖書之研究』を主宰する。足尾銅山鉱毒事件での社会正義の主張や、日露戦争時の非戦論など、信仰と世界的視野に立つ愛国・正義の論陣を張った。キリスト教に関しては、既成教会が典礼・組織・神学に縛られて生命を失っていることを批判し、聖書の研究・講解を中心とする「無教会運動」を展開。塚本虎二(つかもと・とらじ)や矢内原忠雄(やないはら・ただお)ら、各界で活躍する優秀な門弟を育てた。

*9 代表的日本人 | 内村鑑三による著作。1894年(明治27年)11月、民友社より刊行された『Japan and the Japanese』を、1908年(明治41年)4月に『The Representative Men of Japan』と改題して警醒社(けいせいしゃ)より刊行されたもの。旧版は内村第二の英文著作で、その序文は日清戦争の「黄海海戦勝利の翌日」に書かれている。内村は本書において、日本と日本人に固有の価値を自らの英語で西欧世界に紹介しようという意図に基づき、日本の精神的伝統のなかに生きた偉人として、西郷隆盛(さいごう・たかもり)、上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)、二宮尊徳(にのみや・そんとく)、中江藤樹(なかえ・とうじゅ)、日蓮上人(にちれんしょうにん)の5人を取り上げ、彼らのなかに旧約の預言者を見出している。そして、預言者を通して人がキリストにつながれたように、内村は代表的日本人を通して新約のキリストにつながる道を発見し、日本にはキリスト教が根づくために神によって備えられた土壌があると確信し、そこから日本的伝統という旧約のうえに接ぎ木されたキリスト教を自己のキリスト教とした。

*10 上杉鷹山(うえすぎ・ようざん) | 名君として知られる江戸中期の出羽国米沢藩(現在の山形県)9代藩主。日向国高鍋藩(現在の宮崎県)藩主・秋月種美(あきづき・たねみつ)の次男。幼名は直丸、元服して治憲(はるのり)と改名。鷹山は後の号名。明和4年(1767年)に藩主となり、米沢藩の藩政改革に着手。藩主時代には明和・安永期の改革を実施。奉行・竹俣当綱(たけのまた・まさつな)を執政とし、農村支配機構整備(代官制改革)、農村復興、産業の開発および藩校の興譲館の設立を進め、自らも食事は一汁一菜、衣は木綿着とし、奥女中を削減するなど徹底した質素倹約を実行した。政治に当たっても厳正と寛大を旨とし、安永2年(1773年)に起きた改革に反対する重臣による七家騒動に対しては果断な処置で臨み、安永改革の最大の功労者である竹俣当綱の失脚においても厳正な処分を行った。 当綱処分から間もなく、自らも藩主隠退を決意。天明5年(1785年)、新藩主となった治広(はるひろ)に対し、世に知られる「伝国の辞」を贈っている。為政者の心得を記しており「国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候(国家は先祖から子孫に伝えるものであって、自分で身勝手にしてはならない)」「人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候(人民は国家に属するものであって、自分で身勝手にしてはならない)」「国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候(君主は国家と人民のために立てられているのであって、君主のために立てられている国家や人民ではない)」という3ヶ条により君主専制を戒めている。治広の治世に行われた寛政期の改革でも鷹山の指導力が極めて大きかったとされる。代官制の改革、上書箱の設置、博打死刑制の廃止、国産物の多様化策など、新政策も積極的に実施した。この時に執政は、中老職として登用された莅戸善政(のぞき・よしまさ)。鷹山は学問に熱心であり、青年時代から読書を好んだ。江戸の折衷学派の儒学者・細井平洲(ほそい・へいしゅう)を師と仰ぎ、三度に渡り米沢に招いた。また、藩医を江戸や長崎に遊学させるなど、実学として広く学問の導入を奨励した。